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2011.11.14

■レポート 押井守他「アニメーションと日本の戦後社会~ロボット、サイボーグ、アンドロイド、そして人間」@東京芸術大学大学院映像研究科 講演 映像メディア学サミットLOOP-02

Photo

USTREAM: loop_002_jp:
第2回 映像メディア学サミットLOOP-02
「マンガ・アニメの映像メディア学的再考~なぜマンガ・アニメは面白いのか~」
(動画アーカイブ)

 押井出演部分は02:04:00からです。
 動画スライドバーでジャンプ可。最初、音が出ていないですが、すぐ復活します。
 USTアーカイブ日本語版20日24時まで限定公開。英語仏語韓国版14日正午まで。

"■日時:2011年11月12日(土)  14:00〜18:00
■テーマセッション1
「竹宮惠子 ~《少女まんが》の想像力」
14:00〜15:30 竹宮惠子+桂英史
■テーマセッション2
アニメーションと日本の戦後社会~ロボット、サイボーグ、アンドロイド、そして人間
16:00〜18:00 押井守、キム・ジュニアン+岡本美津子

■会場:東京藝術大学上野校地 美術学部
■主催:東京藝術大学大学院映像研究科"

第2回 映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考(公式HP)
 会の趣旨、パネリストの経歴はこちら。

 身体と言語と意識論の部分、押井作品から直接そんな風にとらえたことは無かったけど、別で考えてたこととシンクロして興味深かったので、アーカイブは公開されたけれども、詳細レポートします。

 速射書き取りしてtwitterで連投したのだけど、学者の名や面妖な漢字、文語調でしゃべるので脳の日本語変換エンジンwが悲鳴を上げた。

 それにしても押井守映画の背骨に当たるひとつのテーマが年代史的に語られて、評論書くには有り難い言説になっているw。『攻殻機動隊』以降はともかく、『パトレイバー』あたりの話は、身体論ということでは後付け的に感じられたのは否めないけれど、、、。

 あと原発について、『3.11の未来』で押井守が口述し纏められてた文章に違和感を感じていたが、今日のを聴いて真意がなんとなくわかった。「技術の思想」という言葉に対して「日本の言語に対する曖昧さ」の部分があの文章に抜け落ちていたのが、真意から離れた理由のような気がする。

 ということで、以下に、全体の詳細聴き書きと最後にそれに対する僕の個人的な興味からのコメントです。長文ゴメン(^^;) ↓

◆実況レポート 前置き
 私の2011.11/12 Twilog(16時以降)を再構成。
 一緒につぶやいていただいたUotuki-tsukuyo(@Uotsuki)さん(Twilog)の書き込みも一部引用させていただきました。
 また元祖tsudaるw、津田大介さんのアシスタント Yuichi Kojima / 小嶋裕一(@mutevox)さん/Twilog(17:00〜)のこの講演の連続RTも参考にしました。

 では前置きはこのくらいにして。
 以下、特に発言者の記述がない部分は押井守監督の発言(終わってみれば、シンポジウムと言いつつ、かなり独演会に近かったw)。そして(  )内は僕のコメントです。

 話の順番は、適当に再構成してますので、そこに恣意が入り込んでるかも(^^)。以下はレポートのフィクションですw。正確には動画アーカイブを御覧下さい。
 時間のない方は、以下の項目タイトルの青字と、ポイントとなる赤字の言葉を読めば、ざっとは趣旨を掴めるでしょうw。

◆実況レポート 「日本には技術に思想がない」

 『3.11の未来――日本・SF・創造力』で押井が語った「日本には技術に思想がない」について、まず話は原発事故から。
 自身をまず軍オタだと自称して、軍事関連のエンジン技術の精密加工のレベルの低さを語る。WW2のエンジンの話題から。精密な精度を要する液冷を作れなかった、技術がないから。技術から語るべき戦争。

 漢字文化圏=中国の文化。その中で日本は漢字をツールとして輸入したが、文化は絶縁した。
 なぜ人間が技術を必要としたのかという根幹が日本にはなかった。技術を使いこなす事はできたが、零からものを考える習慣を日本は輸入することができなかった。原発の問題はその現れである。

 どんな価値を実現するために技術を作ったか。手に負えない原発を何故導入したか。原爆は兵器としての悪。それをどうして原発から切り離して考えられたのか。利便性で眼を覆ってしまった。ロボットが人間のメタファーであり兵器であったように。

◆実況レポート ロボットと労働
 キム・ジュニアン氏。
 子どもの頃、マジンガーZを観ながら人間でなくロボットの動きを真似ていた。チャペックのロボットは奴隷労働として描いていた。日本ではミシンという言葉がマシンから来てる。裁縫機械と労働の関係について。
 セルアニメはゼロックスでコピーされる。以前はセルに女性が描いていたのが、現場にコピー機が導入。そして東映動画の労働運動。60年代の男は会社人間、企業人間。女は専業主婦という日本のくくり方。
 機動戦士はほとんど企業戦士に聴こえた。

 司会の岡本美津子氏の質問。
 労働運動していた押井守へ、レイバーという命名について何か意味があったのか。

 既に自分が制作に関わった時には、名前はついていた。
 手塚はロボットという新しい人種を、人間の象徴として作った。人間のメタファーだったアトムから、ガンダムでロボットがただの兵器になった。

 パトレイバーはパトカーの延長でPCでもある。ハードとソフト。ハードが2億個ガンダム消しゴムを売ったバンダイの商売、ソフトが物語と考えた。

 ハードとソフトの関係として、警察、それも警備部、というパトレイバーを試した。ソフトで役割の変わるロボット、それを割り切れるのか?ということ。

◆実況レポート 人間機械論とゴースト(『パトレイバー』)
 キム・ジュニアン氏。
 ロボットはアンドロイド、人形だったがそれを何故ロボットと呼んできたか。人形アニメの研究で科学哲学の領域にも踏み込んだ。
 欧州には錬金術がある。そこで重要なのが脱神秘化/脱宗教性。
 ピノキオの原作は木製→ディズニーアニメは人間的、デカルト的に自己発声。
 リラダン「未来のイヴ」。人間も機械と同様、同じ言葉を繰り返す「人間機械」。
 欧米では機械は偽物、それが日本ではアトムが民衆のリーダーになる不思議。(岩井克人の著作からと聴こえたけれど、違うかもw)

  未来のイヴはロボットを人間に近づけていこうとした。デカルトの人間機械論、神のプログラムで動いている。人間は機械仕掛けの身体の中に魂を宿していると いう欧州の考え方。身体と精神というふたつに分解した考え方。これは既に(神のプログラムであるということと)破綻している。そして不気味な荒涼とした風景を提示している。(日本人は身体と精神というふたつに分解せずあいまいに捌いた)

 攻殻機動隊のゴーストは魂ではない、フィジカルでない何か。
 花にも人形にもあるかもしれない、スピリットではない。神と関係しない自然発生する物。日本人には理解しやすい「想い」のこと
。欧米でこれは理解されない。
 
 機械の中に神が入っている、それを不気味と感じた。
 日本人ほど西洋人はそれを巧く捌けなかった。士郎正宗から拝借したゴースト。スピリットは神の神たる根拠であり、ゴーストは自然発生。

 キム・ジュニアン氏。
 スピリットは精霊。デーモンは自然の中のものだった、それが神様に取込まれていった。そこからはみ出たものが幽霊、ゴースト。ただネオプラトニズムではアジア的な視点が入っている(だっけ?)。

 攻殻機動隊、米国と違い欧州はサイバーオリエンタリズムとして受け取った。カンヌでのアニメの招還も周辺文化として捉えているに過ぎない。米はヤッピーの玩弄物、「クールだ」という奴。ただのオリエンタリズムとしての受容でしかない。

◆実況レポート ゴーストとネット(『攻殻機動隊』)
 岡本
 草薙素子の体がボロボロになるがゴーストは残る。「ネットは広大だわ」というラストシーンの素子の言葉。ネットと身体論の関係は?

 ネットの中に精神が生まれるところを描いた。
  人間のコントロールは、宗教、イデオロギーでしか出来ないのか。唯一人間を変えるものを創り出せる技術によって、身体・精神論が打ち破られるのでは。それ がサイボーグ。ラストで、少女の体になった素子がラストで天使に観えるか、デーモンに観えるかがポイント。その答えは提示されていない。

 岡本
 『イノセンス』でその答えを書いたのでは。人形がテーマになっている。

 自分が年老いて体が駄目になってきた。5〜60才で体が生まれ変わる。その時に理想の身体をどう思い描くか。若さか不老不死か。それが人形だった。そこにゴーストが宿る必要はない。元々は人形が怖かった。家にあって、もし万一動いたら怖い。

 キム
 啓蒙哲学者ディドロ、楽器の演奏は機械との一体化、そこでサイボーグについて既に言及していた。その時機械はピアノであり、サイボーグのような人形の体でなかった。
 その後、オートマタが登場し、その姿に恐怖を感じられていた。理想的身体への憧れと恐怖。
 ロビン・ウィリアムスのアンドロイド映画『アンドリューNDR114』(もちろん原作はアイザック・アシモフの『バイセンテニアル・マン』)ではロボットは人間に憧れるがそうはなれない。
 アトムは天馬博士が体の成長しないアトムに怒り、奴隷として売ってしまう。しかし後に国際機関に人権を与えられる。こうした観点からの分析が必要。

◆実況レポート 「冷たい身体」と自意識と犬
(『イノセンス』)
 『イノセンス』で描いた人形は「冷たい身体」。
 「冷たい身体」というのは、焼き物を磨いて乱反射するビスクドールの肌から思いついた言葉。映画の後に養老孟司氏と話をした。精神と身体という分解をするとややこしい話になる。問題は自意識。犬や鳥ならそんなこと考えない。

 「冷たい身体」に比べるとネットのアバターは「極寒の身体」。
 それに対して「匂う身体」である犬や鳥は人間以上に複雑な意識を持っているかもしれない。

 日本人はどうしていきたいんだろう。身体をテーマとしたことがなかった。日本人は巧妙に精神と身体を分離しないできたのに、精緻に語ろうとするほど精神的になり、欧米人に近づいていく。このつけを今、超高速で受けているのではないか

 ベルメールの人形は何故怖いか。人間そっくりだから怖い。もっと言えば人間はあらゆるものを言語化していく意識というものを恐れている

◆実況レポート 個性は嘘(『スカイクロラ』)
 岡本
 クローン技術の進化とスカイクロラについて。キルドレは、何を持って人間を人間としているかを描いたと思う。それは記憶だったのではないか。若い人に対して作ったというのはどういうことだったか。

 若い人に優しくということでなく、気にかけたということ。
 自分にしか興味なかったのに、老年にさしかかって親身になった。言わないより、本当のことを言った方がいい。小中学校へ行ってしゃべった。早く幻想を捨てなさい。一人一人には何の個性もないという、戦後教育の否定。
 個性なんて嘘である。それにこだわると将来を間違う、と教えた

 夢を持つな、幻想を持つな、ということから始めたらどうですか、と小中学校で語っててきた。

 アニメでは、キャラクタはメタファであるべき、ある役割を持っている。
 実写ほど精緻で微妙な表現は出来ない。スカイクロラの娼婦も少年に対峙する大人の典型として描いただけ。兵器会社の下請け。大人の三つの役割の一つ。

◆実況レポート 自意識である宗教と、身体と精神の言語による分離。
 そして、それを持てない技術思想の無い日本人の核による自爆

 ハタリ、ロクスソルスのセクサロイド。ミラノ大聖堂にしか見えない場所に居る。キリスト教の娼婦。
 キリスト教は、人類の自意識そのもの。自分を観ている自分。
 舞踏家の姉が言うのは、踊りで恍惚とする時、自意識がなくなる、自他の融合を果たす。プリミティブな身体を持つアフリカ他の人類は、タトゥーを入れている。

 身体への刻印。銭湯は面白い。裸体をさらす、祝祭空間であり日常のベタベタの世界。大森の子供の頃の銭湯、体に絵を描いたおじさんたちや義足の人が体を洗っていた。そうした光景が不思議だった。それが身体を意識した最初だった。

 身体は面妖である。そして精神も。
 身体と精神は背反していない、外化し得ない何かなのである。

 人は言葉と人形の他に何を産み出したか。その間に全てが、存在しているのではないか。技術も。

 
言葉がないところ(身体と精神を完全に分離した自意識の意味かも)日本に、技術はない。言葉の厳密さを持たない日本人。だから現実を獲得できない。それが技術の思想。
 原発は第三の原爆と見てもいいと思う。福島原発は日本人の起こした日本語による自爆テロ。

 すべてエネルギは太陽起源であるが、原発は太陽を直接地上に作ろうとした。
 (そこに技術の思想(自意識としての言葉)を持たなかった日本人が手を出したために、自爆した。最後の太陽の件は、僕も中沢新一の言説を想起)

◆実況レポート アニメの恣意性と、工芸品の位置づけ
 アニメーションの持つ鵺性。女優さんの顔を見ていたいけれど、実写監督になるつもりはない。
 アニメは受け手に依存するもの。最近、子ども達が漫画を読めなくなっている。安定した四角だけのモニタを見続けたため。コクピットと同じ。本や漫画は行きつ戻りつするがコクピットにそれはない。

 アニメは現実という根拠を持たない。アニメ=ドラマを排除する映像。現実に根拠をもたないために、恣意的でない人間は登場しえない。
 そういう意味で、アニメは言葉に近い。
 記号であることの宿命を持つ。言語を扱うようにアニメを扱うこと。

 アニメをどうしたら映画に出来るか、僕はかつて全知全能をかけてきた。「天使のたまご」でそれを純化していこうとして喰えなくなった。

 日本のアニメーションは、好きにやってきた。ありとあらゆる形式を試した。これは世間からほっとかれたから出来たこと。
 『攻殻機動隊』は、欧米のインテリに受けたが、それはサイバーオリエンティズムとしての珍なる文化としてだった。
 彼らには、あの絵の描き込みが理解できない。それは韓国でも同じだろう。
 
 何故あのように描き込んで行けるのか。あんなバカなものは日本人しかできないと、韓国の講演でも言ってきた。
 日本人の精緻さゆえ。アニメは工芸品に過ぎない。
 ドラマへの要求でなく、造形への希求。トトロはバンビではない。人間は描けない。アニメーションは誤解を受けた。

 アニメは工芸品なので珠のように磨いていけばいい。
 実写は現実のコピーなのでそれはできない。恣意的な人間は登場できない。

 アニメは、どこかの巨匠のように鉛筆だと言う必要すらない。鉛筆だろうがマウスだろうが同じだ。

◆実況レポート アニメは超超現実的であり、言葉である。
 アニメの表現は言葉に使い。コントローラブルで多義的。観客の練度を要求される。訓練を得ていないと理解できない極限の形。観るものの脳の補完作業がないと出来ない。超超現実的。よってアニメの監督は元々誠実になれないものである。
 
 アニメは監督の恣意だけで成っている。誇大妄想の極限。悪の匂いがする。危険なものだ。(ということは言葉も恣意的で誇大妄想で危険なもの)

◆実況レポート 内発的な身体の動き
 空手4年目黒帯、棒術もはじめた。体は絶好調。酒がやたらうまくなった。
 空手は、舞踏でなく格闘技でもない、姉の言葉で内発性。思考より早く体が動く感動。殴り掛かられて体が意志と別に動く。犬や猫と違いコントローラブルでない

 動作を叩き込むしかない。訓練の過程が稽古。姉がやってる日本の舞踏は、稽古すらない、内発性だけ。寝転がっていて強引に立ち上がる、二足歩行の類人猿の感覚の再現。体をゼロから考え直す。

 空手は眠っていた自分の体の反射神経を蘇らせる。
 先読みしたカウンターを学ぶ。賦活する感覚。身体の持つ内発性。体自体がそれ自体で思考する。動くからだが先にある。人間の本質は身体だ。姉は喝破したが僕はそこまで言えない

 アニメの監督だから言葉の世界に生きているからそこまで言い切れない。しかし現在、この内発性を無くしていることが最大の問題。僕はもう遅いが、自分の体を制御することの快感を初めて知れたのは良かった。(言葉は、身体の内発性を殺している。これが最大の問題と言い切っていると思う)

◆実況レポート 言葉を精密に使わなかった日本。そして、、、。
 日本のアニメはオタクの消費材になった。コピーの劣化コピーに過ぎない。この実感はアニメの現場で大勢が感じていること。

 フランスの『イリュージョニスト』はまさに工芸品。コンピュータでいかさまやった気配があるが、よく観てないのではっきりは言えない。
 仏、迫力のあるものに成りつつあるが欧の価値観が縛っている。

 仏の国家意識大嫌い。中国以上。(フランス語でもUST中継されてるから、主催者引きつっていると司会)。自分達を最高と考えている。

 自分自身を最高ともみないけれど、日本人は自分を甘やかしてきた言葉を精密に使わなかった。技術の思想が持てなかった。(だからこそ(?))原発を物に出来るのは日本人だけ。

 現在は、言葉の曖昧さで復讐されている。日本語で対応できるか
 しかし日本で漢字は意味の限定を初めて実現した。

 文化はローカルなところで初めて生まれる。日本の本質はローカリティ、周辺なんだ。

(時間が無くなって、ここは本当に舌足らずになっている。日本の漢字が、言葉として意味の限定をはじめて実現していることを利用すれば、日本語の言語の曖昧さを克服して難局を乗り切れるかもしれない、と言おうとしていたのか。これは確認してみたかった)

◆まとめと所見
 
ということで、内容はとても多岐に渡り、そして脈絡よりも言いたいことを重視、速射砲のように断定口調で話す押井守の言葉は、思考の羅列に近い。

 前半、一応作品の流れに沿って語られていたが、後半は独演会の度を増すとともに、押井の思想が生の形で提示され、例証も論理的説明もなされなかったために、受け取られ方も様々であったかもしれない。

 しかし僕の恣意は(^^)、その言葉を上記の青字のテーマとそれに対する赤字の考え方(答え)という形で、この講演の内容を受け取った。

 ここではまとめない。僕のまとめは、青字赤字である(^^;)。

 述べられた思想は、精神と身体の二元論のもつ西欧の限界、言語と宗教という人間の自意識の起こす厄災。そして言葉による意識と身体の内発性の相克、人間と異なる犬や鳥の持つ身体の内発性に根ざした意識。日本人の思想のない技術、あいまいさによる、中途半端な言語/意識による技術の自爆。それを日本語で超えられるのか、という問い。

 特に、ここで述べられていることの前半は、押井映画の中から評論が読み取り、自身の語りもなされてきたように思うけれど、身体の内発性とか、言語と意識の関係というのは、今まであまり述べられていないことだったので吃驚した。映画からも犬や人形の無表情な意識のない様子の描写以外には、感じ取れていなかったので、今後の映画作品での、テーマの進化/深化に期待したいものである。

伊藤計劃 「From the Nothing, With Love」引用
 最後に、押井守を敬愛していた伊藤計劃氏の作品に書かれている身体の内発性に関する記述。押井が直接、作品で語ったことはなかったはずであるが、伊藤計劃氏の作品には、メインテーマとしてこの身体の内発性が扱われている。
 本来、SFでは伊藤計劃氏がこのテーマの先端/戦端を切り拓いていたはずで、本当に改めて次の作品が読めないことが悔やまれてならない。

◆関連リンク
 身体の内発性とか、言語と意識の関係は、このBlogでも隠れテーマとして(^^;)、何度か語ってきたことなので、関連記事へのリンクを以下に示す。
 別の(押井以外の)作品に沿って、もう少し丁寧に書いているので、参考までw。
 僕の考えはどうでもいいのだけどw、これらの作品が共通して似たような認識を提示しつつあることは、現時点の日本の何らかの実状と認識のレベルを表現しているように思えてならないので記しておきたい。

解読 神林長平『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』
感想 池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』
感想 村上春樹『1Q84 BOOK1 BOOK2』
感想 伊藤 計劃『ハーモニー』
神林長平『膚の下』(2004)
池谷裕二『進化しすぎた脳』感想  無意識の脳活動と芸術家の「半眼」
意識を持ったロボット

11/22追記
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
 11/21付、講演のレポート
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ J-CASTニュース
 11/22付 上記記事に端を発したネットの言説を紹介。

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