■R.U.R. チャペック(千野栄一訳/岩波文庫)
なんとなく書店で目に留まって、名のみ有名な本作を初読。
それほど古い感じはしない。ロボットが有機的で昨今の機械人形のイメージより、ずっと新しいイメージ。
戯曲なので、是非、芝居で観てみたい。しかも本国チェコ語で。1920年代へきっとタイムスリップできるだろう。
イメージ喚起された部分を例によって抜粋します。なかかないいよ。
超ロボットを作り始めたのです。労働する巨人です。背丈が四メートルもあるのを試してみたのですが、このマンモスが次々と壊れていったなんて信じられますか?(P25)
神経を紡ぐ工場。血管の紡績工場。一度に何キロメートルもの消化管が流れる紡績工場です。それからそれらの部品を、そう、自動車を組み立てるように組み立てる組立工場(P34)
アルクビスト だってもう何年もの間怖くないときがなかったものですから。
ヘレナ 何が怖いの。
アルクビスト この進歩全体がです。それで目まいが起こります。(P80)
アルクビスト 年寄りのロッサムは神を神とも思わぬ自分勝手ないんちきなおもちゃを考えていたし。若い方のロッサムは百万長者を夢見ていた。それはあなた方R・U・R社の株主の夢でもなかった。その連中の夢は配当だった。そして連中の配当のために人類は亡ぶのだ。(P125)
こういう描写を読むと、チャペックがまさに書いていた時のイメージが84年の歳月とチェコと日本の距離を飛び越えて脳内にまざまざと展開する。書いたその瞬間となんら劣化することのない本の活字という情報媒体のみが持ち得る特質かもしれない、と思ったりする。
チャペックがいたチェコは、シュヴァンクマイエル等のアニメ作家の映像でもその一端がうかがえるように、独特の人形文化を持つ国である。そうした人形がいる街に住んで、チャペックがどんなロボットのイメージで書いていたのかを想像してみる。木で作られたチェコの人形と、チャペックの有機的なロボットは、直結はしない。むしろ人形に近いのは、現在の金属で出来たロボットの方だろう。チャペックは、チェコの人形とか、西洋機械文明とかとは、全く別のものとして、むしろそれらとの差別化のために、有機的ロボットを描いたのかもしれない。とすると、本来のロボットというのとは、我々のイメージする現在の産業的な金属のロボットとは全く別の何者か、だったのかもしれない。
ホンダの鈴鹿工場で、何キロメートルもの消化管がラインを流れてASIMOを製造している様を思わずイメージしてしまった。日本のロボット産業は、いつ柔らかい有機部品に手を出すのだろう。
◆おまけリンク
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・R.U.R. (Rossum's Universal Robots)
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