■ウィリアム・ギブスン『パターン・レコグニション』
浅倉久志訳 (角川書店刊)
海外も含めて、表紙の写真を集めてみました。日本のより右から二つ目が中味のイメージに近いです。左のCD?ディスクも捨てがたいけれど。
『パターン・レコグニション』 web KADOKAWA公式ページより
webにあらわれる異常なまでの完成度の高さを誇る断片映像<フッテージ>とは?
<フッテージ>はネット上にランダムに流されている断片的な映像で、ストーリーもないが、抜群の完成度を誇る。主人公ケイスの最終的なタスクは<フッテージ>の正体を探ること。タキという日本人が<フッテージ>の正体の一部を解読したという情報を仕入れ、日本へと旅立った・・・・・・。
サイバーバンクの王者ギブスンが、現実世界を舞台に描いた、スピード感あふれる極上のハイブリット・エンタテインメント!
そう、これは「フッテージ」という究極映像を扱った小説なのである! 僕はギブスンより士郎正宗の方がサイバーパンク的には凄いと思ってしまうOTAKU野郎なので、実は相性が良くない。で、最近の3作くらいは読んでなかったのだけれど、このコピーを読んで手にとらないわけにはいかない!
この本は、はじめから終わりまで、紛れもなく究極映像の探索の物語だ。そして今まで未来社会を描いていたギブスンがその文体で現代を描いた小説。SFではなくこれは現実小説である。
結論として、フッテージの物語はそれなりにワクワクするのだけれど、タイトルにある人間の認識領域に迫るような高みには、残念ながら達していない。究極映像の探求はかように奥が深いのである、なんつって。
小説としては911テロ後の雰囲気も醸し出しつつ、現代的で刺激的な完成度。とりわけ現在のネット環境の描き方が秀逸で、われわれのリアルがここにあるって感じ。頻繁に出てくるスターバックスも、ラテ好きにはたまりません(^^;)。
ギブスン嫌いの人も、今作では三つの制約(「現実世界における2002年の夏を舞台にすること」「多視点描写をやめ、終始ひとりの人物の視点から語ること」「なるべく場面の省略を含まないこと」)を己に課したということで、他よりとっつきやすいです。
◆文体について
文体は本作でも詩的で未来的。
空はまぶしい灰色のボウルで、ほつれた飛行機雲がからまっている。
ジッポーの墓石が、実存主義的エレジーで彼女をひきつける。
ともするとギャグじゃないかと、疑ってしまう現実のねじれた切りとり方。だけれど、そのリズムで独特のギブスン世界がわれわれの脳内に展開され、現代を描いているが常に未来的な感覚がつきまとう。ここで未来的な感覚を覚えるのは、ギブスンの視点のペシミスティックさがそう感じさせているのかもしれない。フッテージを分析するように、一文一文を吟味して、そうしたペシミスティックな視点の頻度をみていけば、この雰囲気の原因は解析できそうだ(そんな面倒なことはできまへんが)。下記はフッテージを描写した文章であるが、この小説そのものの評価に近いものを感じる。
たいていの人はその孤独が深まるのを感じる(略)。しばらくフッテージとつきあうと、それが心にまとわりつきはじめる。短い映写時間にしては、けたはずれに強烈な効果。既成の映像作家でそれがやれる人がいるとは、私には信じられない。(P108)
◆フッテージと東京のオタク集団
ギブスンの文体については、ともかく、このフッテージの説明、映像ファンとしては是が非でも観てみたいと思いませんか。この作品、映画化の予定ということなので、その監督がフッテージに挑戦するのが楽しみでなりません。作家が「既成の映像作家でそれがやれる人がいるとは、私には信じられない」と書いた映像にチャレンジする勇気ある監督は、以前の情報ではピーター・ウィアーということですが、この人では、、、、。たぶんアートフィルムの短編作家あたりにそこだけ撮らせるというような手法になるのではないでしょうか。
そして「六本木の赤提灯」。ここに現れる「東京のオタク集団に顔がきくと主張する」フッテージの秘密を握るタキという男の描写は典型的アキバ系である。汗のかき方の描写が特に。
◆そして、未来
解説(巽孝之氏)でも触れられている次の「未来」に関する一文だけど、どうもここが僕にはギブスンの欠点のように思えてならない。
すみずみまで想像された文化的な未来は、別の時代、"いま"という言葉がもっと長い期間を意味した時代に許されたぜいたくだ。(略)あらゆるものが急激に、強烈に、かつ深刻に変化する可能性があるため、祖父母の考えていたような未来には、その立脚点を築きあげるだけの"いま"がたりない。われわれに未来がないのは、われわれの現在があまりにも流動的であるからだ。(P60)
うーん、たぶんITやディジタル技術の観点でみれば、そうかもしれない。だけど前世紀に電気や車といったテクノロジーがものすごい勢いで進んでいった時も、人々(祖父母)は同様に感じていたのではないのかな。人の身体機能は電気と車と飛行機によって、前世紀飛躍的な向上を得た。この時の身体的な変革は凄まじいものがあったと思うのだけれど。ギブスンが人間の認識領域へのディジタルの影響を形而上的にもっと描いていたらこの未来についての描写は迫力を持つかもしれないが、、、。
前世紀の「身体」的拡張に対して「脳」とか「意識」の拡張についてサイバーパンクは描いてきたかもしれないけれど、実はその前世紀の「身体」的拡張がもはや「脳」や「意識」の拡張だった、という気がしていて、祖父母世代が未来を感じていたという書き方がひどく安直な認識に感じられてしまうのだ。わざと変な例えをしますが、この感覚って「年寄りは時代劇が好き」という全く根拠のない認識と実はいっしょなんじゃないの?(だってじいちゃん達は江戸時代を経験してるわけじゃないんだぜ、当たり前だけど(^^;))。なんだかここがギブスンの物足りなさなんだよね。詩的文体の文学としての面白さはわかります。しかし、ギブスンには基本的に架空の人間の未来は描けても、根本のところでなんか違うんじゃないっすか??と疑問符を付けたくなってしまうのである。
◆関連リンク
・当Blog関連記事 ピーター・ウィアーがウィリアム・ギブスン『パターン・レコグニション』映画化
・William Gibson - Official Website ギブスン本人のBLOG ありゃりゃ、03年9月で終結。言い訳は下記(って機械翻訳で出鱈目)。
「私が私の日雇い職に戻る時間。(日雇い職は私がbloggingするのをもう止めるべきである時間であることを意味します)。(略)最も容易に思い浮かぶイメージはふたがやめられたので沸騰しないやかんのものです。」
・'PR'-otaku: Logging and annotating William Gibson's 'Pattern Recognition' (Joe Clark: fawny.org)
・No Maps for these Territories - William Gibson
・購入は 『パターン・レコグニション』(Amazon)
◆おまけ P35に出てくるリヒテンシュタインの機械式計算機に興味がわいたので、ググってみました。
自分の持ってる手回し計算機(写真最右)のイメージで読んでいたのですが、なんか描写が違うと思ったら、こんな形なんですね。かっこいい!!
これ、オーストリアのクルト・ヘルツシュタークって人がナチの強制収容所にいる間に開発したらしい。ナチは彼を「知的奴隷」と呼んでいたとの描写が『パターン・レコグニション』にありました。ひどい。
会計博物館 CURTA携帯型計算機に詳しいです。
リヒテンシュタインで製造された手動式の携帯型計算機 使い方は、側面に値数をセットし、例えばその数を23倍するのであれば、十の位で2回、一の位で3回時計廻りに頭部にあるハンドルを回転させると、上部の周囲にある表示盤に答えが表示される。
・永瀬唯さんのBlog 錯合回廊--CisMatrix Corridor より海外の詳細なサイトを知りました。大きさは手の中にすっぽり納まるサイズで、とてもクール! うちのタイガー君の無骨さとは対照的か。
クルタ計算機についての総合的なサイトはここ。
クルタ専門のメンテ屋さんのページだが、フラッシュによるクルタ作動シミュレーターや3次元CGのページなどともリンクしてる。http://www.vcalc.net/cu.htm
(錯合回廊「書きそこなった日記から(2004.06.09-06.12)」より)
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