ネットでもかなり批判的な言説が流れているアニメ版『ゲド戦記』。
原作をまず全部読んでから映画を観にいくつもりだった僕も、初めて読んだ原作の素晴らしさと、アニメ版のあまりの不評に尻込み状態。原作の感想を書こうとしていて、アーシュラ・K・ル=グウィンの公式ページを見ていたら、2006.8/13付で「Gedo Senki A First Response to "Gedo Senki," the Earthsea film made by Goro Miyazaki for Studio Ghibli」という公式コメントが出ていたので、レポートします。
ということで、少し長くなりますが、まずは日本側映画制作サイドのル=グウィンとの会話から引用。
◆「ゲド戦記」宮崎吾郎監督日誌 - 番外編5 ル=グウィンさんの言葉
そのパーティーの最後のお別れの挨拶のとき、
自分からル=グウィンさんに映画の感想を求めました。
これだけはきちんと聞いておかなければと思ったからです。
彼女は短く答えてくれました。
「It is not my book.
It is your film.
It is a good film.」
と。
彼女としては、本当はたくさんおっしゃりたいことが
あったのではないかと思うのですが、
それでも温かい笑顔とともに下さった言葉です。
この短い言葉を素直に、
心から感謝して頂戴したいと、思ったのでした。
宮崎吾郎監督も「本当はたくさんおっしゃりたいことがあったのではないかと思うのですが」と書かれていますがズバリ、その真意がアーシュラ・K・ル=グウィンの公式HPに公表されています。スタジオジブリにとっては、かなりつらいコメントになっています。
僕はずっと積読でやっと最近1-4部までを読んだにわかファンですが、原作の素晴らしさに感銘を受けたので、映画版で誤解をされて原作を読まない方が増えないようにという気持ちで非常につたないですが、以下要約してみました。ここまで書かれたら、原作ファンである宮崎駿氏には、ジブリの公式ページでル=グウィン氏のコメントを正式に翻訳して公開してほしいものです。公式にどこかで翻訳文が出たら、下記は削除します。
微妙な表現の部分が多々あり、私の英語力では誤解を招きそうなので、よく理解できていないところは「(?)」を付けました。かならず原文に当たってご自分の判断で理解していただきますよう、お願いします。
◆Ursula K. Le Guin: Gedo Senki, a First Response (公式HPより要約)
(「私」というのはアーシュラ・K・ル=グウィン自身を指す。)
・約20年前に、宮崎駿から3部作の映画化提案を受けた時、私は彼の仕事を知らなかった。ディズニータイプのアニメしか知らず、それが嫌いだったので、断った。
・6,7年前にヴォンダ・N・マッキンタイヤから『となりのトトロ』のことを聞き、いっしょにそれを観て、宮崎ファンになった。彼は黒澤かフェリーニと同レベルの天才だと思う。
・数年後、翻訳家の清水真砂子氏に、宮崎駿氏がまだ関心があるのなら、映画化に関して喜んで話し合いたいと言ってもらうよう、頼んだ。
・2005.8月鈴木敏夫氏と宮崎駿氏が私と私の息子のところに訪問した時、駿氏は映画制作から引退、そして家族とスタジオは彼の息子の吾郎氏に映画化をさせたいと、説明を受けた。我々は失望し心配したが、プロジェクトは常に駿氏の承諾を必要することを保障されるという印象を与えられた。この理解の下、我々は契約した。
・その後、駿氏が映画作りに参加していないことがわかった。彼から感動的な手紙(?)(moving letter)を受け取ったが、私はこのフィルムの制作に太平洋をはさんで、怒りと失望(anger and disappointment)が伴ったのが残念。また駿氏が引退せず別の映画を作っていると言われた。これは私の失望を増加させた。
・私が東京へ行けなかったため、嬉しいことに、スタジオジブリはたいへん親切で、8/6に映画を持ってプライベートな試写を開催してくれた。子供をつれた友人達がたくさん来た。子供達の反応は、幾人かの小さい子がかなり驚くか混乱していたが、年長の子は平気(cool)だった。
・試写後、私達は息子の家でいっしょに食事した。
ウェルシュコーギーのエリノアは素晴らしく適切に振舞ったが、鈴木敏夫さんは芝生でひっくり返った。
・私が去ろうとしたちょうどその時、宮崎吾郎氏が「映画はお気に召しましたか」と尋ねた。その状況で簡単に答えられる質問ではなかった。私は「Yes. It is not my book. It is your movie. It is a good movie.」と言った。私はプライベートな質問にプライベートに答えたつもりで、公表されたくなかった。しかし吾郎氏が彼のBlogで公開したので、私はここに言及する。
・それの多くのシーンは美しかった。しかしすばやく作られたこの映画で、多くのconers(?)がカットされた。それは『となりのトトロ』の繊細な緻密さや『千と千尋の神隠し』のパワフルで素晴らしく豊かなディテイルがない。イメージは効果的だが、型にはまっている。
・私にはたいへん支離滅裂な話に感じられた。これは私が自分の本のストーリーを見つけようとしていたからだろう。私の話と同じ名前の人々によって演じられるが、これは完全に異なった気質と歴史と運命の物語である。
・もちろん映画と小説は非常に異なるフォームの芸術である。そこには大規模な変更も必要かもしれない。しかしそれは40年間にわたり出版されてきた本に基づき、物語と登場人物への信義が妥当である場合の話である。
・アメリカと日本のフィルムメーカの両方が、これらの本を、コンテクストを離れた断片として、名前といくつかのコンセプトのために単なる鉱山(mines)として扱った。一貫性がなく、完全に異なるプロットとしてstory/iesを取り替えた。私は本だけではなく, 読者に示される敬意のなさに驚く。
要約は以上。
(この後、映画のメッセージの説経的な部分、アレンの殺人と影の扱い、善悪の問題、肌の色等々についての否定的なコメントが続いています。ただ竜の描写の素晴らしさ、ゲドの声優の演技、「テルーの唄」への賛辞は述べられています。ここは映画を観ていない僕はあまり触れると間違ったことを書きそうなので、原文をあたっていただきたい。)
たいへん礼節を持たれた表現をされていますが、しかしその内側では自分の物語とファンへの愛情から、かなりのお怒りの様子が伝わります。この本が言葉と名前とそして人間に対して、非常にデリケートな感覚で書かれた素晴らしい物語であるだけに、このコメントからうかがえる原作者としての違和感はたいへんなものがあると思います。これはまさに僕のようなにわかファンでなく、その作品の隅々に影響を受けた宮崎駿氏他、長くファンの方の気持ちそのものではないかと、読んでいて痛くなってきました。
わざわざコメントのタイトルを"Gedo Senki"としているのも、元々名前の重要さをあれだけ書いている本に対して、なぜこのような原作から違和感のあるタイトルを付けているのか、という気持ちを込めているのかもしれません。(僕は翻訳書のタイトルの『ゲド戦記』もこの本のテーマから考えると、大きな違和感を覚えます。あと作者名を「ル=グウィン」としか表記していない岩波書店の無神経さ。米国TV版の予告編で、ゲドらしき人物がいきなり門番に「ゲド」と自分から名乗っているシナリオの無神経さと同種のものを感じます。「発行者:山口」と苗字だけ表記された時の不快感を感じないのでしょうか、この出版社は。)(言葉のニュアンスにこだわりぬく作家の文章をつたない英語力で、このような要約としてBlogにあげる自分にもかえってくる批判とは思いつつ、、、。間違い等あれば、どんどんコメントください。修正を入れますので。)
◆関連リンク
・TV版ゲドに作者の怒り:全訳(前半) 全訳(後半)
上記を書いていてこんなものも検索で見つけました。こちらにはハーブさんという方による、同じくアーシュラ・K・ル=グウィンご本人の米国TV版への批評文の全訳があります。上で「アメリカと日本のフィルムメーカの両方」と書かれているアメリカ版についての批判。
・世界一早い「ゲド戦記」インタビュー 鈴木敏夫プロデューサーに聞く
: YOMIURI ONLINE(読売新聞)
コメントにもある鈴木氏と宮崎駿氏の訪問の様子が書かれています。この訪問の際に誤解が生まれたわけです。
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