« ■広島国際アニメーションフェスティバル
   HIROSHIMA 2006
| トップページ | ■西澤 丞写真集『Deep Inside』
   コッククロフト・ウォルトン静電型加速器  »

2006.08.27

■アーシュラ・K・ル=グウィン/清水真砂子訳 『ゲド戦記』
  第一部~第三部 Ursula K. Le Guin "EARTHSEA"

Earthsea_paperback
A Wizard of Earthsea
(1968)
The Tombs of Atuan (1971)
The Farthest Shore (1972)
Tehanu: The Last Book of Earthsea (1990)
The Other Wind (2001)

総 論

 『ゲド戦記』を読了したので感想。まず最初の三部作。映画を観ようか迷いつつ、十数年積読にしていた本を手にとった。(本末転倒(^^;)。)

 すでにオールタイムベスト級の名作と位置づけられている中で、いまさら僕ごときが改めて言う必要もないのだろうけど、傑作。各作品が独立したテーマと端正な物語を持っていて、しかも一人のWizerdであるハイタカの十代、壮年、初老の時代をまるごと描き出していて素晴らしい。

 ここにあるのは、ハイタカだけでなく、今の世界に遍在する人間の一生の普遍的なものを描き出していると思う。それを光と影のまるごとを圧縮して描き、しかも竜と魔法の異世界を見事な存在感で物語として立ち上げている。ル=グウィンは『闇の左手』と数作しか読んだことなかったのだけれど、やはり代表作の本書は素晴らしい。

私 事

 元々この本、うちの子供が生まれた時にある友人に誕生祝にもらったもの。その子も今年既に受験。残念ながらわが子は、『ハリーポッター』は大好きだけれどもいまだこの本は手をつけていない。子供にも読める平易な文章で書かれているが、芳醇で奥深いこの物語の世界は十代で触れるのがベストだろう。映画をみせて本の世界へ誘ってあげたいと思ったのだが、、、。

Ursulakleguin_ged

--------------------------ネタばれ注意!! ---------------------------
 では各巻のレビュウを続ける。(レビュウというか、気になったり感銘を受けた言葉のメモと感想なので、長文が気にならない方のみ、よかったら読んでやってください)。

 別の記事でも書いたけど、本書の名前や言葉に関する重要さはテーマのひとつであると思うのだけれど、何故か邦題は『ゲド戦記』という原題とは異なる名前(しかも本シリーズの内容とかなりズレている)が堂々タイトルになっている。僕はどうにもこのことに違和感がある。

◆『影との戦い』 A Wizard of Earthsea

 光と影のテーマ。十代の(というか人間の)自信過剰とか放漫とかそうしたもののエッセンスを影に象徴している。ハイタカの少年時代の描写がとてもいい。広い世界へ出ていく時の戸惑いとか、ローク学院での同級生との葛藤とか、この年代の不安や希望のエッセンスが見事に濃縮して描かれている。

わたしにはこういうことについて語る資格はない。わたしは言うべきことを誤って言ってしまったんだ。くちをつぐまなけば。もう二度としゃべりはせん。それに、闇以外に真の力はないのかもしれん。(P246)

ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知るものは自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。彼はそのような人間になったのである。

 十代の迷いとこの影との関係が見事な青春小説として結実している。

 もうひとつ、ものの本質とことば、沈黙と発語というのが意識的に書かれているのも凄く印象に残った。
 魔法の出自を言語との関係で書いているのが新鮮だった。このアプローチというのは、本書が最初なのだろうか。元々魔法と呪文というのは密接な関係があるので、当然のアプローチなのかもしれないが、、、。言語学のル=グウィンへの影響を詳細解析した文章が読んでみたい。

 この魔法使いの長い、問いかけるような沈黙が部屋にひろがり、ゲドの心を満たし、そうなるとゲドは、ついには、ことばというものがどんなものだったかということさえ忘れてしまったような錯覚にとらわれ、やがてオジオンがその沈黙を破って話しだした時には、まるで今初めて彼によってことばが生みだされたかのように思われてくるのだった。(P35)

 この石ころを本当の宝石にするには、これが本来持っている真の名を変えねばならん。だが、それを変えることは、いいか、そなた、たとえこれが宇宙のひとかけらにしかすぎなくとも、宇宙そのものを変えることになるんじゃ。(略)宇宙には均衡、つまり、つりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡をゆるがすものになるんじゃ。(てわざの長 P71)

 というものの本質が真の名そのものである描写があるかと思うと、こんな文もある。

 だけど、わたしたちは、自分たちのことばを食べることはしたくないんだ。「ミートパイよ、出ろ!」って言ったって、それはつまるところ、ことばでしかないだろ?(略)それはつまるところ、ことばでしかないだろ?そりゃ、香りだって、味だってつけられるし、それを食べれば腹いっぱいにもなる。だけど、それはやっぱり、所詮ことばなんだ。(P242)

 たぶん作者もあまり明確にし過ぎないように注意しているのではないか。
 こうした世界の成り立ちのある種のブレが真相を安直な解釈で簡素化しないような配慮のようにみえる。ここを統一的に解釈する論理の抽出をどのようにするかというのが、『ゲド戦記』論の骨子であるのだと思う。って、書けないだろうけど、、、。(かなり難解な第五巻の読解とこの言葉と物の本質の解析は密に結びついているのだろう。)

◆『こわれた腕輪』 The Tombs of Atuan

 一巻からこの物語の冒頭へのここちいい飛躍が好き。ハイタカ(ゲド)の竜王となる活躍などは吹っ飛ばして、物語はひとりの生贄となる少女の姿から始まる。

 暗闇の洞窟世界。アルハ(テルー)という少女の物語。
 第一部が少年の青春物語であったとするなら、この前半は少女の感覚で描かれた十代。体内空間のような暗闇と大巫女としての少女の揺れ動くこころ。ここが素晴らしくいい。テルーの子供時代とアルハ("喰らわれし者")がアチュアンの墓所の大巫女になるまで。

 過去の歴史の埋まる洞窟の闇と少女のこころの動き。そんななかで描かれる墓所の玄室にゲドの投げかけた光によって白日の下にさらされるシーンの美しさ(P90)。ゲドの登場のしかたも謎めいて(アルハの視点からみた)悪の影を引いているような描写もとてもいい。

 洞窟のシーンは、『指輪物語』というよりは古川日出男の『アラビアの夜の種族』を想い出した。(というくらいファンタジーに疎いわけです(^^;))。

 このアルハが知っているのは暗闇だけ。地下の夜の世界だけ。だけど世の中、本当はこれしかないのさ。闇と静寂と、人が知るのは結局これだけさ。おまえはたしかに何でも知ってる。このアルハはひとつのことしか知らない。だけど、それは、まぎれもない、たったひとつの真実なんだ!(P130)

 そしてゲドによる洞窟の闇からの解放。ここでも真の名がキーとなっている。ゲドによって支えられていた洞窟が崩れ落ちる解放のシーンが素晴らしい。

「わたしはテナーなんだ。」アルハは小声でつぶやいた。陽に洗われた大空のもとで、彼女は寒さと恐怖と、だが、たとえようもない歓喜に身を震わせた。「わたしは名前をとりもどした。私はテナーなんだ!」(P145)

あんたは自由なんだよ、テナー。あんたは奴隷となるように仕込まれた。だが、あんたはそれから抜け出したんだ。(P159)

わたしは何のお返しもしていない。だが、今はすべてのものをあんたにあげよう。わたしの本名はゲドだ。そして、この名はもう、あんたのものだ。(P172)

 『ゲド戦記』の本質的な部分はここにある、という名シーン。
 真の名前の獲得と解放。洞窟との対比。映像的なカタルシスと精神的な解放が結実したシーンであり、我々読者が映像化で観たいのはこうしたシーンなのだろうと思う。特に真の名の獲得による解放のシーンと映画音楽が重なったら、素晴らしいシーンとなるだろう。

◆『さいはての島へ』 The Farthest Shore

 今度はアレン(レパンネン)の物語。アースシーの新しい王の誕生までの物語。
 第三部では、大賢人となったハイタカ(ゲド)が登場しているわけだが、本来アレンを導くはずが、ずいぶん人間くさい面を描写している。そしてアレンは、大賢人ハイタカの人格と、さらに魔法を手品のようなものと疑いを抱く。

 この人自身、どうかしてしまっている。気が狂って、以前自分でも言ったとおり、死を求めているんだ。それで、このわたしをいっしょに連れていこうというわけだ。だが、このわたしは気が狂ってもいなければ、まだ年だってとっていないぞ。死ぬなんてまっぴらだ。いっしょになんか行くものか。(P161)

この男も死にかかっている。自分もいずれ死ぬだろう。この男の失敗のために、いたずらに、無益に…。(P181)

 老成した大賢人をイメージしながら読んでいくと、いささか戸惑ってしまう。ル=グウィンはこんなところでも物語の元型としてのヒーローではなく、人間を実像として描き出している。こうした描写によって三部作は、人間そのものを丸ごとの形で提示できているように感じる。

 わしらときたら、今いる世界や、人間同士、たがいを支配する力を持っている限り、木の葉や、クジラや風がその本性にのっとって、ごくごく自然にやっていることを、その気になって学ばなければならない。わしらはどうしたら均衡が保たれるか、それを学ばなければならないのだよ。知性があるのなら、あるように行動しなければ。(P113)

 そしてこうした文章が入れられている。物語としては、展開のスピーディーさをそこねるこうした描写が、しかし『ゲド戦記』そのものといった味わい深いイメージを構築しているのだと思う。

 歌はもうありませんだ。きれてしまいました。(P211)

 いかだに住む一族の祭りの日に歌を歌えなくなる吟遊詩人。その後、代わりに歌い終わったアレン。
 そして竜が空から現れるシーンの美しい描写。言葉と沈黙と人と竜。このイメージ構築は素晴らしい。いかだの一族とかこうしたディテイルが、読者のアースシーの世界をひとつひとつ構築している。
 (なんか、いかだの一族が好き。あの時間テンポには惹かれるものがある、、、。)

 竜にとっては、ものをわかりやすくはっきりと話すのはたいへんなことなんだ。頭のつくりがそういう封にはなっていないものだから。(P251)

 わしは生きている人間で、わしの肉体は太陽のもと、大きくめぐる地球の、あのセリダーの浜にあるのだから。そりゃ、肉体が滅んだ時には、わしもここに来ることになるだろう。だが来るのは名だけだ。影だけだ。そなた、それがわからぬか。死者たちからあれほど多くの影を呼び出し、最大の知恵者たるわが王エレス・アクベまでも呼び出しておきながら、それがわからなかったのか。(P291)

 人と竜、生と死というのは、これに続く第四部、第五部でも徹底して描かれるが、本三部作にその種はすべて入っている。すこし時間が空くかもしれないが、続けて第四部、第五部の感想もアップします。

★最後に、この三部作をうちの子供に贈ってくれたH君に感謝。申し訳ないけど、15年あまりたってやっと父親のみ読み終わりました。子供は受験後にきっと読んでくれるでしょう。(すみません)

◆おまけ 宮崎駿への影響

 はじめて今回『ゲド戦記』を読んで、宮崎駿の底流にいつもこの作品世界の雰囲気が流れているというのがよくわかった。ル=グウィンの構築したヴァーチャルな世界の疑似体験が、宮崎の血肉になっているという感じ。

 というのは、例えば『千と千尋』の名前の扱いなんかは、当然のことと作中で扱われているが、われわれ観客にはいささか唐突にみえる。しかし宮崎の中では、すでにこうした描写は自身の土壌に染み付いているある意味あたりまえの表現なのだろう。だから唐突ではあるが、作品中でも妙に存在感がある設定になっている。血肉として土壌に染み付いている所以であると思う。

 以下、思いつくままに、その土壌を感じる部分をいくつか。これはちゃんとやれば無数に出てくると思う。

・いかだ一族とコナンの海の描写
・ゲドとユパ
・魔法というものの作中での存在感 意味合い
・邪悪な黒い影 
・光と影の融合、ナウシカ
・商人ホークに変身していたのが、ウサギと話す間に大賢人の姿に戻るゲド
 『ハウルの動く城』でのソフィーの年齢の変化/変身

 『ゲド戦記』で描かれる人という存在にとっての光と影へのアプローチは、宮崎の漫画版『風の谷のナウシカ』でたぶんル=グウィンを超えたのではないか。(他のル=グウィン作品で同様のアプローチの深化があるか私は知らない)。ナウシカがその光と影すべてをひっくるめて、人間存在をありのままで肯定したラストは、その源を『ゲド戦記』第一部に持ちながら、宮崎駿の中で進化/深化し結実したものであると思う。
 宮崎駿が『ゲド戦記』映画化を手がけなかったのは、この漫画版『風の谷のナウシカ』を超えた描写を、『ゲド戦記』映画化で実現できる算段が付かなかったからではないかとも思う。

 なので、『ゲド戦記』ファンで今回の映画化に不満の方は、ぜひ未読なら『風の谷のナウシカ』をお薦め。
 『ゲド戦記』の土壌に結実した宮崎駿の最も素晴らしい果実がそこにあります。

◆関連リンク
Ursula K. Le Guin's official web site
 ル=グウィンもアースシーへの愛着が強いみたいで、オフィシャルサイトのトップはアースシーの地図です。

|

« ■広島国際アニメーションフェスティバル
   HIROSHIMA 2006
| トップページ | ■西澤 丞写真集『Deep Inside』
   コッククロフト・ウォルトン静電型加速器  »

コメント


 shamonさん、コメント、ありがとうございます。

>>「パンダコパンダ」再公開ニュースに
主題歌が頭の中で回ってます~(笑)。

 パンコパぁー、再公開は2本立てなのでしょうね。僕は自分が子どもの時は観たことなかったので、むしろ子供たちといっしょに観た記憶が蘇ります(^^;)。

>>こんばんはー。TB感謝です。

 実は不思議なのですが、この記事2006年に書いたもので、今回TBの記憶がありません??
 ひねもすのたりの日々へ昨日訪問して、びっくりしてました。この記事のTB記録にも形跡が残っていないので、謎は深まるばかり。

>>3部作読破されたんですね。
私は読まなければ・・と思いつつ
「守り人」シリーズに流れてます。
とりあえず一作目だけでも読もうかな。

 一昨年、全作読みました。これは傑作ですよー。全く冗長ではなく、一作ごとがそれぞれの魅力を持っていて、つながっているのに広いヴァリエーションを持っていて、充実した読書の快楽が楽しめます。

 僕は思春期に読まなかったことをかなり悔みました。

投稿: BP | 2008.01.23 00:57

こんばんはー。TB感謝です。
「パンダコパンダ」再公開ニュースに
主題歌が頭の中で回ってます~(笑)。

3部作読破されたんですね。
私は読まなければ・・と思いつつ
「守り人」シリーズに流れてます。
とりあえず一作目だけでも読もうかな。

投稿: shamon | 2008.01.22 21:03

 かわこさん、はじめまして。

>>私は大学で英文学科に属しているのですが、今ゲド戦記の分析ということで、最終レポートを書いています。

 最終レポートというのは卒論のようなものなのでしょうか。追い込みの時期、大変でしょうが頑張ってください。
はるか昔ですが、卒論の追い込みで大学の研究室の床にダンボールを敷いて、一泊した日を思い出しました(^^;)。

>>そこで私は作者の言語学に興味があって調べていて、このブログを拝見しました。彼女の言語学とは何だと思いますか?

 『ゲド戦記』のみからの感想ですが、ル=グゥインにとっての「言語」の意味は、根本は一つだけれども二つの側面があると思います。

 まず「人間の「現実」が言葉によって構成されている」というところに根本があるのだと思います。

 そしてひとつ目の側面は、「現実」が言葉によって構成されているものだから、「言葉」が物の本質と不可分だという認識。この認識から、物の本質を表す「言葉」を操ることによって魔法が物語世界の中で機能しているのではないでしょうか。

 そして二つ目の側面は、物語世界を構築していく道具としての「言葉」。つまりアースシーの世界を独特の世界として描くために「言葉」の語感等、非常に注意深く創造のために使っていく、というような部分。これはファンタジー作家の基本かもしれません。 

>>私は特に1つ1つの小さな島、たとえばatuanとかatniniなどの島の名前の起源を探ろうとしているのですが、まだatuanがロシアにあるということしか分かってないので、もし何か御意見があったら聞かせてください、お願いします!

 残念ながら直接この部分には知見を持ち合わせていません。こうしたアプローチで起源を調べたことが全くないのです。

 海外のサイト等で何かあるのかもしれません。

 お役に立てず、申し訳ないですが、ル=グゥインにとっての「言語」ということで、僕の感想だけ書いてみました。かわこさんのアプローチは、上に書いた二つ目の側面からのアプローチなのでしょうね。

 レポートでそこを的確に射ることができる情報が見つかるといいですね。

投稿: BP | 2008.01.20 14:58

こんにちは!初めまして☆
私は大学で英文学科に属しているのですが、今ゲド戦記の分析ということで、最終レポートを書いています。そこで私は作者の言語学に興味があって調べていて、このブログを拝見しました。彼女の言語学とは何だと思いますか?
私は特に1つ1つの小さな島、たとえばatuanとかatniniなどの島の名前の起源を探ろうとしているのですが、まだatuanがロシアにあるということしか分かってないので、もし何か御意見があったら聞かせてください、お願いします!

投稿: かわこ | 2008.01.20 12:35

 上田早夕里さん、こんばんは。

>>ナウシカとヒドラの最初の対話シーンで、セルムがナウシカを助けるためにぱっと背後に登場する、
>>あの場面を見て、ゲド第三巻の「こわれた腕環」の雰囲気を連想したのです。

 今、確認してみましたが、第七巻P125でしょうか。墓所の手前の廃墟と見えた街に存在する休息の庭の園丁との対話シーン?

 こことそれに続くシーンは僕も好きな場面です。ただ個人的にはセルムとゲドのイメージは言われるまで繋がっていませんでした。
 あまりにもユパとゲドが直結していて、ユパ以外に目がいっていないのです。

>>あと、土鬼の皇弟ミラルパの魂とナウシカの精神が賽の河原みたいな場所で遭遇する場面、あれは
>>間違いなく、ゲドに出てくる生と死の境界にある石垣へのオマージュですよね。

 あ、これは僕もそう思います。
 賽の河原のイメージは欧米でも黄泉の国との境界のイメージなのでしょうか?それともル=グウィンが賽の河原を知っていた?

 『ゲド戦記』読後に『ナウシカ』を読み直すと、改めていろいろと感じるところがあるのかもしれません。(今まで平日にナウシカを読みたくなって次の日に眠い思いをしたことが何度あったか、、、、(^^;)。今日は止めときます。それにしても第七巻は最高です。)

投稿: BP | 2006.08.29 00:02

漫画版「ナウシカ」に登場するセルム(:森の人)というキャラクターは、宮崎駿さんふうに解釈されたゲド本人(ゲドの性質の一部が投影されたキャラクター)なのではないかと、初読のとき以来感じています。いま手元にナウシカの原作がないので正確に指摘できないのですが、ナウシカとヒドラの最初の対話シーンで、セルムがナウシカを助けるためにぱっと背後に登場する、あの場面を見て、ゲド第三巻の「こわれた腕環」の雰囲気を連想したのです。

あと、土鬼の皇弟ミラルパの魂とナウシカの精神が賽の河原みたいな場所で遭遇する場面、あれは間違いなく、ゲドに出てくる生と死の境界にある石垣へのオマージュですよね。
それから、テトのモデルはオタク(この名前、今の日本では誤解されそうですが(^^;)かな、とか。

投稿: 上田早夕里 | 2006.08.28 03:27

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■アーシュラ・K・ル=グウィン/清水真砂子訳 『ゲド戦記』
  第一部~第三部 Ursula K. Le Guin "EARTHSEA"
:

» ハウルの動く城 [DVDを見つくせ!]
宮崎駿監督作品! 1500万人を動員した劇場大ヒット作が遂に登場! [続きを読む]

受信: 2006.08.30 01:04

« ■広島国際アニメーションフェスティバル
   HIROSHIMA 2006
| トップページ | ■西澤 丞写真集『Deep Inside』
   コッククロフト・ウォルトン静電型加速器  »