■黒沢清監督『大いなる幻影』:Barren Illusion
黒沢清映画はSFだったようだ。
1999年 製作: ユーロスペース, 映画美学校
プロデューサー: 掘越謙三, 松田広子
脚本: 黒沢清
撮影・照明: 柴主高秀
美術: 松本知恵(映画美学校第1期高等科修了。『LOFT』美術)
音楽: 相馬大
出演: 武田真治, 唯野未歩子, 安井豊, 松本正道, 稲見一茂
1999年/日本/95分/カラー/35mm
この映画は映画美学校の黒沢講師の授業の実習として作られたものらしい。DVD特典の黒沢清ロングインタビューによれば、「最強のインディペンデント映画作家の養成」を目指す映画美学校で、プロ的な脚本主導の映画ではなく、ラフな脚本から現場でどう映画が立ち上がってくるかを学生たちに示した作品、とのこと。
観終わって、まさに自主映画的な作品であり、そしてどこをとっても黒沢清の映画になっていると感じた。そして恋愛SF映画(^^;)。
僕は黒沢清の自主映画作品は(『ドレミファ娘の血は騒ぐ』は違うよね?)、一本も観たことがないのだけれど、他もこのようにイメージを映像で詩的に積み重ねていく作品なのだろうか。エンターティンメントを期待する観客は必ず置いていかれる、だけれども自主映画的な、感覚の映像を観たい自主映画フリークには素晴らしい作品なのだと思う。
DVDのロングインタビューで、ライターの相田冬二氏がインタビュアーとして黒沢清監督にこの映画の解読を聞き出している。黒沢監督はDVDで煙にまかれた観客のため、かなり丁寧に自作の成り立ちと構造を説明していて、この一時間あまりのインタビューは、黒沢清の映画術を知る上でも貴重な映像になっている。
-------★ ネタばれ注意 ★-------
◆恋愛映画のリアリティ
まず物語の骨格がなかなか観えてこないこの映画で、はじめに印象に残るのは、セリフの少なさ。これは現実が映画ほどひっきりなしに人と人の間で言葉の会話がなされているわけではない、というリアリティの描写になっている(北野武が『あの夏、いちばん静かな海。』で同様のアプローチをしているのを想い出す。そのために北野監督は主役ふたりにある設定をしているが、この映画ではそうした設定はなく、ごく日常が会話に溢れているわけでないことを自然に描写している)。
そんな現実につながるリアリティの描写と、映画ならではの不可思議なシーン。これが黒沢映画の真骨頂で、花粉らしきものが舞うシーンが秀逸。最初は羽毛が舞っているように見える。もしかして空の天使の羽が舞っているのでは、というような夢想も呼ぶ。
武田真治と唯野未歩子の生活が淡々と語られ、言葉がないためもどかしさを感じるが、逆に会話がほとんどないことで、ふたりの距離感が妙に生々しくリアルなものとして体感される。この感覚を生成しているだけでもなかなか面白い映画だと思う。いっしょにいるシーンがいくつもあるのだけれど、いつからどのような深さにふたりの関係があるのか、非常にあいまい。終盤まで近づいていても抱擁やキスシーンはなく、そのことで観客へはこの距離感に心が騒がせられる。語らないことのイメージ喚起力をうまく映画の情動に結び付けている。
◆SFの裏設定
黒沢インタビューによると、この映画の中では世界地図らしき映像でそれらしくほのめかされるだけなのだが、映画の裏設定で舞台となる2005年の世界は、国境があいまいになり、ユーラシア大陸全体がゆるやかな連合を形成しそこで戦争が起っている。しかし日本は世界の中で忘れられ、消えかけているというSF的な設定がされているという。そしてこれをSFであると明言。1999からみた2005年の実感ということを言っている。
また、『回路』について、同様の世界観が背景にあり、そこではすでにユーラシアはだめになっており、破滅する世界から、南米へ逃げる話にしている、という。
これらの映画だけ観ていても観客には、ほとんど伝わらないSFの設定が、黒沢映画にある種の幻想的な感覚、異世界の現実をみせられているような感覚を持たせているのではないか。監督の頭の中に広がるもうひとつの世界のリアリティが映像の端々に微妙な陰影を与え、われわれには奇妙なリアルな世界が現前する。
その異世界感覚は、われわれが小津映画でかつてどこにも存在していなかった幻想の日本をみせられているような不思議な感覚を持たせられるのと似ている。どこかで思考の形態も生活の根っこも全て微妙にずれている世界を観ている感覚である。
黒沢清で明確にSFとうたえるジャンル作品はないと思うのだけれど、このインタビューで「SF」と明言しているのにはちょっと実は驚いた。でも我々SFファンがひかれる理由はこんな世界描写があるからかもしれない。本格的にジャンルSFな映画も撮ったら凄い傑作が生まれるのか、、、(それとも超駄作??(^^;))観てみたいものです。(『CURE』も『回路』もほとんどSFなのだけれど、、、、、。あと『蛇の道』なんて作品も異世界感覚出まくり。復讐映画とみせかけて、これも裏にはSF設定が横たわっていそうなのだ。)
◆関連リンク
・評論家大場正明氏のホームページcriss crossの 『大いなる幻影』 ふたりは外部も内部もなく、ただそこにある (『大いなる幻影』劇場用パンフレット文+若干の加筆)
そんな彼女は、自分の在り方というものにおぼろげな疑問を感じるようになる。彼女が、外国人女性の部屋でユーラシア大陸の地図を見るとき、そこには日本は存在していない。
侵入した外の世界が、まるで日常のような様子で非日常の姿を現すという構造は、「学校の怪談」シリーズを通じて黒沢清が歩み寄ったジャパニーズ・ホラーの諸作と同様なのだけれど、しばしば暴走に向かう「非日常」が、不確かだけれどそこにあるにちがいない「愛」によって、まるで返す波のように幾度も「日常」へと押し戻されるさまには、悠揚とした時間と空間の広がりが感じられて、これが95分の尺に納まるスケールだとは、にわかに信じがたい。
・映画美学校
映画美学校フィクション・コース初等科開講にむけて
黒沢清(第一期主任講師)
我々は映画作りのノウハウを伝授しようとは考えていない。我々が目指すのは最強のインディペンデント映画作家の養成である。だからこの講座を選んだ時点で、あなたはただ「映画を撮りたい」と主張するだけではすまなくなった。最初にあなたを待ち受けているのは「どんな映画を撮りたいのか」という質問である。
・相田冬二編『映画×音楽―セッション・レポート103』(Amazon)
相田氏は、ぴあ発刊の雑誌『invitation』等のライターとのこと。ネットで検索してみると、非常に評判のいい映画評論家さんのようです。(寡聞ですみません。)
・黒沢清監督『大いなる幻影』(Amazon)
■ロングインタビューからのメモ
・撮っている時は、何分になるかわからないままやっていた。自主映画もそうだった。編集時点も考えずにやったが95分に収まった。自分の手腕に感心もしたが、プロのやり方が染み込んでいると実感。
・脚本はラフ、ただまとめる時にジャンルが顔をだす。最後メロドラマにもっていったことでまとまった。
・『ドッペルゲンガー』の役所広司。ある種の決まった役でなく、それを外した映画を撮りたかった。翻弄される側の役は今までにやってもらったので、素晴らしいのはわかっている。今度は、翻弄する側をやらせてみたい、ということで、そのどちらをも一本の映画で、やってもらった。撮影は楽しくてしょうがなかった。ジャンルのごった煮。
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