■京極夏彦『邪魅の雫』
「殺してやろう」「死のうかな」「殺したよ」「殺されて仕舞いました」「俺は人殺しなんだ」「死んだのか」「──自首してください」「死ねばお終いなのだ」「ひとごろしは報いを受けねばならない」
昭和二十八年夏。江戸川、大磯、平塚と連鎖するかのように毒殺死体が続々と。警察も手を拱く中、ついにあの男が登場する!
「邪なことをすると──死ぬよ」
今週は『邪魅の雫』週間で、読書に呆けていました。
2003.8月の『陰摩羅鬼の瑕』 から3年、800ページのサイコロ本のシリーズ最新刊に満足。そういえば、このBlogで京極堂シリーズ本篇の感想を書くのは初めてですね。
さっき、ざっとmixiの感想なぞ読んでいたのだけれど、やはりこのシリーズ、キャラクタ小説として読まれています。「今回はあいつは活躍が少なかった」、「彼は、、、だった」的言説が多い。読者みんなの「世界」に浸透している京極堂世界。
『邪魅の雫』(Amazon)
--------------------★ネタばれ注意★-----------------------
今回のぼくにとっての圧巻は、大鷹と江藤というキャラクタの描写。
こいつらの思考過程が自分の頭の中に入り込んでくるのが、たまらなく気持ち悪かった。作中で「馬鹿」と評される大鷹と、鉛が頭の中に溜まっていく江藤。そしてそこに吹き込まれる神崎宏美の言葉/現実。
世の中で起きる殺人事件で、被害者の家族をもっとも苦しめるのが、この大鷹や江藤のような殺人者が何故人を殺したのかわからない不合理さではないか。
画家の西田の世界は、閉じているがまだわかる。しかしこの二人の内的世界は尋常ではない。通常の感覚ではわからないが、それが、その思考過程がしごくすんなりと自分の頭に再構築されてしまう気持ち悪さ。それを作り上げている京極夏彦の筆力は凄い。
家族を殺されて、その原因もわからずに苦しむ人たちは、この小説を読むと、もしかして少しだけ殺人の実像に近づくことができるのではないだろうか。不可解な殺人のいくつかは、こうしたシチュエーションとこうした人間の感覚から生み出されているのかもしれない。
論理とか道理とか科学とか工学とか、近代世界が産み出したそうしたツールによって、人間は、その巨大な脳とそこに生まれた意識という生臭い生物として抱えてしまった不気味な世界像を統御しているようにみえる。
しかしその実像は、統御しきれずに殺人事件や信仰宗教やUFOや妖怪といったものとして漏れ出てくる。この過剰な内面といったものが漏れ出てくる気持ち悪さが、今回の大鷹と江藤というキャラクタの描写であったと思う。
別名百鬼夜行シリーズといわれるこのシリーズは、多かれ少なかれこうしたイメージでとらえると、わかりやすいテーマを内包していたと思う。今回は、複数の内面世界の錯綜を意識的に描き、この実像をさらに鮮明に描き出した作品になっている。
鮮烈さは弱いが、それだからこそ、より現実世界とシンクロした薄気味の悪い世界の実像に触れている小説になったのではないだろうか。
電車の中で本作を読んでいて、ふとまわりを見ると鉛をたたえたような目の大人が実はかなりいることに気づく(仕事に疲れている自分の目も心配ではあるが、、、(^^;))。各人がその脳髄の中にひとつひとつ別の世界を抱えていると考えると、吐き気を覚えることがある。『邪魅の雫』は、ぼくにとってそんな世界を思い出させる小説だった。
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