■黒沢清 『映像のカリスマ』
「ヒッチコック/ロメール」(P107)
唯一、ウフフ笑いだけが、か細い映画の息の根を繋ぎ留める手段として我々に許されている。
「メディアとしての映像、メディアとしてでない映像」(P204)
ところで、電気屋の店先に備えつけられたビデオカメラで、不意に自分の姿を撮られてしまった経験がおありだろう。(略)
あれはもう、メディアでもなんでもないまさに、"凶器なる何ものか"とでもいったものだ。カメラとモニターは、万年筆ではいささかもなく、全ての物語が剥げ落ちた不気味な光学的現実で我々を不意打ちする凶器にも思えてくる。(略)
今に、自分自身の出産シーンから始まる生長の記録が延々何十時間にも及ぶビデオテープとして保存されている人間が続々と登場してくるだろう。(略)そこではまったく新しい物語が語られるのか、あるいは映像がいよいよその本性をむき出しにして物語を破壊しにかかるのか、それはわからない。(略)人間の本質にかかわる何かが、のっぴきならぬ変容を経験するのではないか、と気に病むのは僕のとりこし苦労だろうか。
復刊された『映像のカリスマ』を読んだ。
やはり黒沢清の視線はとても面白い。かなり変わっているといってもいい。これだけ他から偏光した視線を持っているから、あのような映像が撮れるのだろう。映像を撮るために生まれてきたような思考の構築のされ方が素晴らしい。
僕が特に面白かったのは、上のP204の引用。
近代、写真によって剥ぎ取られてきた人間の物語が、さらにビデオによってどう変容するか? ここへ向けられる黒沢清の視線。映像記録が人の記憶と感情、さらにはその精神の成り立ちへきっと影響を与えていくだろうという映像作家の未来(現代?)予測に、身震いがする。
黒沢清の映画が持っている恐怖の本質に少しだけ近づけたようなこの一節が特に印象的だった。
にしても、ビデオカメラのハイビジョン構成比50%の時代、どのように人が過去を認識するようになるのか、本気でもの凄く興味がある。どっかの大学の映像研究室で、映像による人の意識のなんらかの定量化をトライしてもらいたいものである。
僕らは過去をセピア色の写真として認識する世代だけれど、今の若い人はもはやそこが違うはず。ではハイビジョン世代は?? 面白いテーマと思うけれど、、、。
◆関連リンク
・『黒沢清の映画術』
・無為の恐怖──それも、あるがままだ (「企画会議『カリスマ』」について)
(『アサヒグラフ』2000年2月25日号)
・映画をめぐる怠惰な日常さんの イベント 『ジュンク堂書店池袋本店
JUNKU 連続トークセッション 「黒沢清を作った10の映画」 黒沢清×篠崎誠』
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