■BSアニメ夜話 細田守『時をかける少女』 筒井康隆、アニメにおける文学の可能性を毒とともに語る
BSアニメ夜話 第8弾 『時をかける少女』6/27
出演 筒井康隆、江川達也、岡田斗司夫、渡辺隆史、氷川竜介、加藤夏希、里匠
◆アニメ夜話に筒井康隆登場
今回の見どころはなんといっても筒井康隆御大の登場。
ベティとか往年のスラプスティックアニメについては、数々エッセイのある筒井だが、ジャパニメーションについて語ったのは見たことがない。
辛らつであるが、他の誰よりも深く『時かけ』を語る筒井の姿に、アニメ夜話のいつもの温いファンの集い的雰囲気が引き締まった見事なパネルディスカッションであった。
タイムリープによる時間移動の整合性について、隣に座る渡辺隆史プロデューサーに、自分の原作ではきっちりと辻褄を合わせているのに、映画は合わせていない。「突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるんですよ。自転車くらい、ちゃんと修正しとけよ」と凄む筒井。右の写真の眼が怖い(^^)。本気でなく演技ですが、、、。
「筒井さん、タイムリープできるとしたら、どこへ行きたいですか?未来だったらいつですか?」と江川達也にぬるい質問をされて、「未来は死ぬんだよ、俺は」。
「これがあるから『時かけ』。ここをはずしてたら『時かけ』でなくなるという部分はどこですか?」というありきたりの質問にも、「別にそんなもの(『時かけ』で)なくなってもいいよ。タイトルと僕の名前が出てればいい。この本は孝行娘です、この子が一番稼いでくれる。渡してしまったら、後はどうなろうと知ったこっちゃない。」
SF作家としてのタイムトラベルものへのこだわりと、星、小松ら第一世代の作家のバカ話を髣髴とさせる往年の気概に溢れていて感動。
まわりがおじいちゃん作家として扱おうとしているのを、毒のある笑いで突破していくところが観ていて気持ちいい。
◆『時かけ』の文学性 ゲーム的リアリズムについて
東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」をひきながら、主人公 真琴がタイムリープでリセットしてカラオケを続けるシーンに文学をみる筒井。まさか筒井がアニメ『時かけ』で先端文学を語るとは思っていなかったので、なかなか刺激的。
リセットして生きかえることが可能で、ゲームには本当の死というものが存在しないのに、それが文学に成り得るか、という命題がある。しかしそこに逆に文学性あるとするのが「ゲーム的リアリズム」らしい。
死に対面する機会の少ない現代、逆にゲームでは自分の死を何度も体験している。リセットによるある意味小さな死に頻繁に出会い、ショックを受けているはずである、という言説らしい。
そして『時かけ』でも、繰り返しシーンを描いているのが文学的な部分であると語っている。死を描いているわけでないカラオケシーンがどう文学なのか、これについての突っ込みはなかったのがちょっと残念。
自転車のシーンで映画全体に横たわる死の存在を指していたのかもしれない。
◆さらに先端へ。真琴の世界の外部
岡田斗司夫が『時かけ』を「世界系」として語ったところに筒井が反応している。
岡田「恋愛ドラマとして物凄いと思う。恋愛感情が心の水面に浮かんでくる寸前を描いている。しかしそれを描いているかわりに世界が狭い、未来の世界が出てこない。真琴の世界観でギリギリのメンタルなところを描かなきゃいけないから、破綻させないためにルールが多い。それにより大きなリアリティをはずしてしまった」
筒井「(恋愛感情ギリギリというテーマは)今まで文学で描けなかったことをアニメでできたことを良しとする」「これは文学でも一番難しいところ。うまくまとまりすぎていて、そっから先を書くと文学になるのに破綻するのが怖くて踏み込めない。こっから先できません。何故できないかを描けていたら(文学になる)、完全にメタフィクションですよ」
恋愛未満、そのギリギリのメンタルな部分を描いていることが、細田版『時かけ』のメインテーマなのは間違いのないところだろうけど、それが「物凄い」、「今まで文学で描けなかった」とまで表現するのはどうかな、と僕は思う(少なくとも映画やドラマではこの作品と並ぶ/超えるものはあると思う)。
でも凄いなー、「こっから先、何故できないか」をアニメが描く。このイマジネーションに痺れました。どんなものか具体的には思い浮かばないけれど、なんとなく手触りは伝わってくる。
細田版がもしそこへトライするとしたら、その手がかりは未来の世界をかすかにイメージさせている「アノニマス 逸名の名画」展の『白梅ニ椿菊図』のシーンがキーポイントになるだろう。
未来から千昭が来た理由は、世界の滅亡/死と深いつながりがあるように描かれている。ここをもっと深く構成して、恋愛未満の感情が水面下から浮上し千昭との関係が結晶化する瞬間を描きつつ、同時に圧倒的な未来の絶望的現実/死に遭遇するように描く。
「ゲーム的リアリズム」という閉じた「世界系」から、外部/本当の死へと越境していく、そんな文学がそこに現出していたかもしれない。
さらにそこで作家/読者視点が物語に導入され、何故飛び出せなかったかを『白梅ニ椿菊図』をテコにして、芸術作品と現実の滅亡の関係を俯瞰できるメタフィクションとして成立するアニメーションの誕生。、、、、なんちゃって(^^;)。
そんな超絶ストーリーを持ったもうひとつの『時かけ』を夢想させてくれたアニメ夜話/筒井康隆に感謝。(でもそんなアニメーションになってたら、『時かけ』のさわやかな青空のイメージは崩壊、破綻してたでしょうね。物語の中で、夢想させるきっかけを提示するくらいがたぶん正解なのでしょう)
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