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2009.08.18

■解読 神林長平『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』

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『アンブロークンアロー―戦闘妖精・雪風』(ハヤカワ・オンライン)

(昨日の感想から、以下続く)

★★★ネタばれ注意★★★
(内容が思弁的なだけにこの程度の記述じゃ、本当のネタばれにはならないけれど為念)

◆エビグラフ と 人称

 すべては変わりゆく
 だが恐れるな、友よ
 何も失われていない

 このエビグラフは、まさに本書を体現している言葉である。
 つまり小説の人称を自在に混在させ、一人称の部分が全体のほとんどを占めるのに、その一人称自体がいろいろな登場人物視点にスライドしていく。読者はこれにより結構な眩暈を覚えることになる。
 本書のテーマの一つである人それぞれで現実が違う=不確定性という概念の文体化。
 まさに視点によって「すべては変わりゆく」。しかしどこかで表現される「失われていない」「リアル」。
 これは神林の作品で今までも何度も語られているモチーフであるが、今回以下の観点を持ち込むことで、さらに破たん寸前だけれど、ギリギリ戦端を広げることになっている。

◆無意識の思考 と 擬似的な思考システムである言語

 文章を書いたり言葉で思考するというのは、その本来は意識できない思考の流れを擬似的に再現しようとしているに過ぎないのであって、言葉による思考は本物の思考ではない。われわれの思考というのは無意識になされているのであり、意識するのは、生きている限り寝ても覚めても休むことなく無意識になされている膨大な思考計算の、そのほんの一部の結果にすぎない。われわれが意識するのは、瞬間瞬間のそうした「結果」「結果」「結果」の羅列なのであって思考そのものではない。
 それでもヒトであるわれわれには、無意識の思考の流れをあたかも意識的に追跡しているかのように感じられるが、それは、擬似的な思考システムを持っているためだ。それが、すなわち言語能力というものだ。(リン・ジャクソンに宛てたアンセル・ロンバート大佐の手紙より P23)

「無意識の思考や意思というのは<自分>ではない(略)」
「では<自己>はどこに発生するんだね」
「だから、言語上に、ですよ(略)。脳なんかなくても言葉さえ存在すればそこに自己が発生する。」
「いまきみが言ったことは、おそらくジャムの人間観を表している。ジャムは、人間とはそういうものだととらえているに違いない。」(ロンバート大佐 桂城少尉 P118)

 ジャムが、われわれの、おそらくは言語感覚を操作することによって、ある種の錯覚世界を生じさせているんだ。(桂城少尉 P136)

 記憶が虚構ならば、それをもとにして構成される自意識というのは仮想、すなわち本心とは異なる、仮の想いだ。普段のわれわれは、そうした仮想の自分といういわば代理人(エージェント)でもって世界を認識し、他者との意思交換を行っているのだ。(ロンバート大佐 P150)

 長文の引用になってすみません。
 P23から既にスロットル全開、冒頭でのこのテーマ提示にはびっくりした。先に書いた村上春樹『1Q84』の感想に直結していたから(全くの我田引水で申し訳ない(^^;))。

 この部分、池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』で述べられている脳科学の実験データで検証されつつある自由意志の仮想性というテーマと、ダイレクトにつながる。
 そうしたデータの引用は本書にはないので、あくまでも言語テーマを追求してきたこの作家による空想の結果として、ここに記述されているのだろうけれど、、、。

 そうした脳科学の知見に、神林がデビューからこだわり続けているテーマである「言語」に関する観点を導入すると、上の引用のとおりの認識が生まれるのではないか。

 そしてそれを、ジャムという異種知性体の攻撃概念に外挿したストーリー展開。
 ここが本書を「異種知性体 戦闘哲学SF」と呼びたくなる根拠である。

◆人間に自由意志はない

 今までの神林作品でも、自由意志の不安は常に描かれてきたが、それは「言語」による自由意志の拘束性、というテーマだった(と僕は記憶している)。

 本書が神林のそのコアテーマの戦端を広げたと思えるのは、引用部分にあるように、「無意識の思考の流れをあたかも意識的に追跡しているシステム」として「言語」を規定した点である。今までの作品では「言語」が人間の限界を規定している原因だったのが、さらにその根本原因に言及したのではないか、というのが戦端の拡大。

 <自由意志は言語があるから拘束されている>という今までの概念を否定し、<もともと自由意志はない。自由意志は、瞬間瞬間の無意識の「結果」を仮想している言語が作り出している>という認識へ転換しているのだ。(ありゃありゃ、こんがらがった表記でわかりにくくてすみません。)
 つまり、今回新しいのは<もともと自由意志はない>と意識を否定しているところだ。

◆では無意識は、本当に自由意志ではないのか

でも、おれは、そうは思わない。自意識というのは、筋肉と同じレベルで実存しているとおれは感じる。そんなものは自意識ではないと大佐はいいそうだが、では別の言葉にすればいい、自意識ではなく自我意識とか。そういう意識は、筋肉が身体を動かすように無意識の本心そのものをドライブすることができる、と思う(深井零 P157)

 さすが主人公深井零(^^;)。
 ここで語られるのは、前項で書いた<もともと自由意志はない>という概念への疑問と、さらに新しい概念の提示である(弁証法での正反合の「合」ですね(^^;)) 。
 (自由意志と自意識を同義と捉えていいのかという問題はありますが、、、)。

 筋肉に例えた零の表現はいかにも戦闘機乗りの視点である。言語に頼らず戦場を生き抜いている零に言わせたことが本書のひとつの肝である。
 無意識の意志決定を、自由意志とも自意識とも呼べない新しい概念として述べたいため、神林はここでは「自我意識」という用語を用いている。この言葉が的確な用語であるかどうかは大変微妙であるが、ここで筋肉の動きに例えていることから、神林が述べたいのはイメージできる。

 僕の解釈はこうだ。神林ははっきりと書いていないが、以下のように表記するとわかりやすいのではないか。

◆戦闘機のシステムアーキテクチャと意識/無意識

 戦闘機の制御を想起してほしい。それはおそらく下記の構成を持つのではないか。

A. 周辺検知、エンジン制御、機体運動制御、攻撃制御、乗員安全制御、、、といった各サブシステム/制御機能。
B. 雪風のように高度な機械知能を持った機体は、これら制御を上位階層で統合制御するシステム機能を持っているはず。
C. さらにその制御の状態を客観的にとらえ(俯瞰し)、乗員もしくは基地の戦術コンピュータへ伝えるインターフェース部分が必要。

 つまり零が説明したことを戦闘機の上記システムアーキテクチャで表現すると、人間の筋肉の動きがA.の階層(無意識のレベル)、自由意志/自意識がB.とC.の階層ということになる。
 人の自由意志/自意識が瞬間瞬間の無意識の「結果」をとらえているだけというのは、戦闘機では、応答性のニーズから瞬時瞬時は各サブシステムのA.レベルが実行し、それをB.レベルで後追いで認識し(次の行動を大まかに統合制御し)、それをC.レベルが言語化し他者に伝える、というプロセスになる。

 最新の脳科学の知見では、人の行動は、下記のようになっているという(当Blog記事 池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』より引用)。

認知レベル   ①動かそう ②動いた
脳活動レベル ③準備      ④指令
実験結果
 認知レベルと脳活動レベルの関係
 ③準備→①動かそう→②動いた→④指令 (P251)

「自由は、行動よりも前に存在するものではなくて、行動の結果もたらされるもの」
自由意志は「動かすのを中止することしかできない(P258)」という概念が実験的に確認されているという。

 なんだか禅問答のような記述にみえるかもしれないけれど、これは各種実験で確認されている事実と、そこから抽出される概念。

 まさに上で述べた戦闘機のシステムアーキテクチャを想定すると、わかりやすいのではないだろうか。

 これって実は戦闘機で書いたけれど、我々の身近の家電とか自動車とかのシステムも、意識的であれ無意識的であれ、現在、これに近いものになってきていると考えられる。A.B.C.のB,Cがどの程度進化しているかが異なるが、近未来にB,Cがこれらのシステム構成に追加されていくのが時代の趨勢といえると思う。
 さらに脱線すると、これを徹底して意識的に実行すれば、特にB,Cをいかに人間の言語に近いシステムとして導入するかで、人工意識みたいなものが出来あがってくる可能性があるんじゃないか、と思ったり(^^;)。もちろんそんなに単純な話ではなく、言語学とか認知学の知見をぶっこんで、意識的に作り上げることが重要だろうけれど。

車のNAVIって一部音声認識発語が可能なので、実はこの視点から既にミニミニ人工意識の萌芽となっている(現にうちの子供たちは車のNAVIが喋るのに刺激されて、彼女(女性声)に名前を付けて呼称している(^^))。
 NAVIが車両内部の各周辺検知情報や制御機能について、上記先端の知見を入れたうえで、俯瞰して語り出したら(A.を自己観察して語るということ)、人工意識としてのレベルはかなり上がるのではないか。単純だが、これをどうユーザー(特に子供たち)が認識するかで、意識の問題は装置のレベルで、生活の中で検証されていくのではないか。チューリング試験的に(^^;)。

 閑話休題。
 零が述べていることの新規性は、A.について、人間の無意識と呼んで自由意志から切り離して考えるのではなく、これも「自我意識」と呼んで人間自身と考えればいいのではないか、という概念だと思う。先の戦闘機の制御で言えば、A.B.C.ともにそれは雪風自身であって、B.C.のみを切り離して雪風の自我意識と呼ぶのは変だよね、ってことだと思う。

 これが池谷本の時に書いた、近代の意識偏重主義の突破、と同じ概念だと僕は思った。神林のような鋭利な文学者と、脳科学の先端知見が同様の結論を推定してきているのが、とても興味深い。(そして現代の機械システムの制御アーキテクチャもまた、そこに近づいているのが面白い)

◆意識を生み出す進化圧力と鮮やかなラスト

 かなり本書から脱線してしまったが、神林長平は下記のとおり、続けている。

 環境におけるそうした自己の時空的定位を認識する能力というのは、生物に特有なものではなかろうか、自分がいまどこにいるのかを捉える感覚器を持っているというのは。それは認識対象との関係性を能動的に測る能力に繋がるだろう。そうした能力が、いわゆる<自我>というものを発生させたのではなかろうか。(略)それらは無意識的にやっていることだろうが、意識的にやれた方が有利だという状況があって、そのような進化圧力が加わり人は意識を持つようになった、というのはありそうなことだ。(深井零 P223)

 意識(=言語)というものの成り立ちの推測である。
 前項の文脈で言えば、B,Cの俯瞰機能と他者へのコミュニケーション機能のために、意識と言語が進化した(というかそれを持たない者が淘汰された)、ということになる。

 終盤、雪風のエージェントとしてエディスが出てくるシーン(P280)がある。
 まさにコミュニケーションのために雪風が作り上げた機能がこのエディスである。雪風がジャムと戦うために、人間を分析し、人工意識を作り出したシーンと言える。

 そして鮮やかなラストシーン。

「雪風は魔を祓うために来たのだ」。

 不確定性にまみれたフェアリイの地からの雪風の飛翔とそれによる現実の定位。哲学的な世界が、本書世界で確固たる存在である戦闘機により、リアリティを獲得するスリリングで確信に満ちた神林の筆致が見事である。

◆関連リンク
Shimojo Implicit Brain Function Project 下條潜在脳機能プロジェクト

脳全体の情報処理のうち、ヒトの意識に昇るのはごく一部である。しかし意識に昇らない膨大な神経情報処理が脳の高次機能を支え、また通常使われない神経 接合(シナプス)がずば抜けた学習性/可塑性を保証している。こうした潜在的な神経回路は、知覚、記憶、運動、情動などの諸機能に広汎にまたがっている。 潜在脳機能には無自覚的、自働的、非課題依存的、非記号的(=身体的)などの共通した特徴が見られるが、同時にまた知覚が記憶を介して情動と交流し、統合 される場でもあると考えられる。したがって潜在脳機能をより深く解明することが、心と脳のもっとも未解明の謎とされる「感性」(意識と情動の機能)の理解 につながるとともに、ヒトの持つ驚くべき潜在認知能力を引き出す鍵を与えることにもなろう。

サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)

意識下にある情動・認知系への介入は、意識レベルでは認識されないからだ。本書は、「情動」と「潜在認知」に関わる認知神経科学の知見をもとに、現代の諸相をつぶさに検証、創造性をもたらす暗黙知の沃野に分け入って、新たな人間観を問う意欲作。
 今回、雪風を読みながらネットでこうした概念を探していたら、下條信輔氏の上記、潜在脳プロジェクトと書籍を見つけました。なんか近い感じ(^^)。
 まだ下條氏の本は未読。さっきAmazonから届いたので、これから読むつもり。
 神林が「自我意識」と書いた言葉は、もしかして学術的にはこの「潜在脳」という言葉に置き換えられるかもしれません。
伊藤計劃 「From the Nothing, With Love」
 ベンジャミン・リベットを引用した同様の描写があるようです(未読)。

・当Blog記事 このテーマ、いろいろこだわって暑苦しく書いてますので、、、(^^;)。
 感想 池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

  この本で西洋近代の「我思うゆえに我あり」という意識尊重主義(?)に対して、科学的な最新の実験結果を示しながら、大きな風穴を開けていることは確か (^^;)。(略)
 今回は自由意志というものがどういうものか、ということをデータで示している部分で、かなり突っ込んだ意識についての認識を示している。

 感想 村上春樹『1Q84 BOOK1 BOOK2』

 リトル・ピープルに騙されてはいけない(^^;)。彼らはたぶん自由意志とは相反するところのものを象徴する存在なのだろうけれど、リトル・ピープルの否定からは、この齟齬の問題には、けりは付かないと思う。

 意識を持ったロボット

  この意識活動の中で「自己」が発生する。たとえば他の動物が自分にぶつかろうと近づいてきた時を考えてみるとイメージしやすい。視覚聴覚等の外界情報で脳 内に他者接近の一次情報が発生。それを避けようとするためには、どうしてもコントロールしてその他者から逃げるための対象として「自己」を脳内で想定する 必 要が生ずる。そのようにして「自己」「意識」が発生。「意識」のひとつの形態(?)が「自己」?

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コメント

 ponzyさん、はじめまして。
 この感想、気合い入れて書いたので、コメントいただき嬉しいです。

>>アンブロークンアローをよんで霧につつまれていたわたしの頭も一気に晴れました。

 と言っていただけると嬉しいです。

 今後の神林作品の戦端がこの方向で切り開かれていくかどうか、個人的にとても楽しみです。

 また伊藤計劃氏が近いスタンスを主要テーマとされていたので、亡くなられたのがとても残念です。二人の対談とかも読みたかったです。

投稿: BP(ponzyさんへ) | 2010.01.31 08:25

はじめまして。
通りすがりのものですが、ブログの内容を拝見させていただきました。

いやー鋭い考察ですね。アンブロークンアローをよんで霧につつまれていたわたしの頭も一気に晴れました。

池谷先生の本を参考にしてるあたりも面白いと思います!


よしっ、もっかい読んでこよっと。

投稿: ponzy | 2010.01.30 23:42

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