■感想 サミュエル.R.ディレイニー『ダールグレン:Dhalgren』
サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン (1) (2)』
国書刊行会−−これから出る本
"サミュエル・R・ディレイニー 大久保譲訳
「20世紀SFの金字塔」「SF界の『重力の虹』」と賞される伝説的・神話的作品がついに登場! 異形の集団が跋扈する迷宮都市ベローナを彷徨し続ける孤独な芸術家キッド──性と暴力の魅惑を華麗に謳い上げた最高傑作"
読後、さぼって間があいてしまったのだけど『ダールグレン:Dhalgren』の感想をまとめておく。
◆総論 (青字:ポジティブな評価 赤字:ネガティブな評価 を示すw)
満を持して(待ちすぎてw)出版された、SF翻訳史上ひとつの事件と言ってもいい本書の刊行。サミュエル.R.ディレイニーの諸作を読んで、その華麗な文体と鋭利なイメージ喚起に痺れていたので、長大な本作の全体がめくるめく作品となっていることを期待していた。
読み通すのにかなりの困難さを伴う、という噂もあったので週末集中して一気に読む作戦で、究極映像犬といっしょに、謎の都市ベローナへと赴いた。
しかし何のことはない、華麗で緊密な(?)文章は冒頭と最終章くらいのもので、どちらかというとディレイニーにしては緊張感のない隙のある文章がだらだらと続き、読むのに苦労するのは寝転んで本の重みに疲れが溜る腕くらいのものだった。まずは構えて読まなくても大丈夫ですよ、ということを皆さんに伝えたい(^^;)。
で、そんな前置きはいいから、早く総論をということでまとめから。
ところどころに華麗なイメージと、メタフィクション的な複雑に仕組まれた謎(らしきもの)があり、そういった部分には満足できる。
のだけど、長々と語られるヒッピー文化/コミューン/不良描写については、ディレイニーの自伝的な部分なんだろうけれど、この2011年に読むと刺激は弱く、古い感覚の小説ではないか、というのが正直な読後感(この年代に書かれた小説なので、時代性を切り取る部分が感覚的に古いのはしょうがないのかもしれない)。
こうした部分を半分くらいに刈り込んで、もっと鋭敏な異民族/性差描写を極めてくれていたら、手放しの傑作になったかもしれない。当時は衝撃的だったかもしれないが(実はそうでもなかったのかもしれないw)、少なくとも現在、読むとそれほどそうした部分ではエッジの効いた小説ではないと思う。
ひとつ具体例を書くと、ディレイニーというと必ず想起するキーワード「ゲイ」の描写について。(僕は世のそうした文学や芸術作品にほとんど触れたことがなく、かなりの門外漢なので、もしかしたらとてもいいかげんなことをこれから記述するかもしれないがw)、なんとも描写が生温い(^^;)のだ。
主人公がゲイとなる描写が、何の精神的な深みもなく、ただ単に同衾していてなりゆきでしちゃいました、って描写になっている(最初の2箇所とも)。
ま、まさに日常の延長に横たわっているんだよ、と言いたいのかもしれないけれど、そんなものを僕はSFで読みたいわけではないw。
超えるべきハードルがどんなもので、それが人類にとってどういう意味を持つのか、なーんていうパースペクティブが開けるような、眼の覚める思索をディレイニーに期待する僕は間違っていたのでしょうか(^^;)。
と、一例を挙げたが、その他、無頼派的な描写もかなり出てくるのだけれど、現代のノワールを鑑賞してしまった僕らには、生温〜い感じがして仕方なかった、というのが総論。
謎の都市ベローナの何やら不穏な空気感だとか、天体にかかわる描写とか(ネタばれ避け中w)、詩作とメタフィクション的な仕掛けとか、もちろんかなり面白い小説であることは認めた上で、欲張ると上述したような不満が出てくる。
うん十年待った、あのディレイニーの大作に、こういう期待をするのは決して間違っていないと思うんだけどな〜w。期待をしなきゃ、逆に失礼でしょ…。
というわけで、本書の僕の読書体験としての評価は、青字と赤字の幅の中にある。読書においては青字部分でそれなりにワクワクし満足。でもかなり赤字部分に振った読後感でトータルとしては不満が勝ったということになる。繰り返すけれど、青字は素敵ですよ(^^;)。
◆総論 補足
僕の正直な読後の感想は上述の通りなのだけれど、実はこう言い切ってしまうのにいささか躊躇していた。
というのはバラまかれた謎が僕には解けなかったから。
ベローナという謎の災厄に巻込まれた都市の謎、天体の異常……、それらに一気通貫して縦糸になるはずのメタフィクションの仕掛け。
充分に読み込んで、海外の研究成果等もネットで検索して、その謎が本当に解明した時、本書は僕の読後感と全く違った様相をそこに表すんじゃなかろうか、という期待/不安がモヤモヤと胸に渦巻いて、しばらく読み終わって100箇所くらいのドッグイヤーに従ってページをめくりながら考えていたのだけれど、僕のぼんくら頭にはその答えはついに今のところ到来していない(^^;)。
というわけで、未だにtwitterやウェブにて「ダールグレン」のキーワードで日々、いろんな方の感想に眼を通しているのだけれど、大絶賛している人の感想を、もしかしてこの人は謎を解けているんじゃないか、と読んでも今ひとつピンとこない。
そのあげくあの山形浩生氏が『ダールグレン』酷評を公開され、そしてあろうことか『ダールグレン』絶賛派(と勝手に思っていた)柳下毅一郎氏までもが、それに賛同するつぶやきをされるに至り、解明のモチベーションが一気にトーンダウンw。
ということで、謎解明を楽しむのが本書最大の読書の快感ではないか、と思っていたのだけれど、どうやらそれも凄まじい物ではないらしい、と感じてきて、ここに上述の総論となったわけです。
まだ実は本書のウィリアム・ギブスン序文と巽孝之氏解説を封印してて読んでいないので、めくるめく謎解きに期待して今から読んでみることにします。
◆各論 というほど大げさではなくメモ・ランダム(^^)
・僕の書棚から、眼についた大作本を比較のために並べてみた。
聖家族 738頁、青銅の悲劇 772頁、ザ・スタンド 1444 頁、ダールグレン 1006 頁。週末一気読みのおかげもあるけれど、実は私的にはこの4作の中では『ダールグレン』が一番読みやすかった。最も時間がかかったのは、エンターテインメント作家キングの『スタンド』(^^;)。
★★★ ネタばれもあるので、未読の方は、ここまでに留めて下さいね。
・村上春樹『1Q84』との関係。異世界であるベローナの描写と、村上の1Q84世界はどちらも二つの月を持つ。おそらく米文学に精通している村上は『ダールグレン』を読んでいたと思う。インスパイアされたものかどうか、どなたか村上氏にインタビューしてもらいたい。そして彼の『ダールグレン』評を聞きたい。
・途中でもところどころ一人称は使われていたのだけれど、急激に三人称が一人称に変化するのは下巻P336。これはメタフィクション上の仕掛けと、加えて主人公キッド(仮名)が物語世界の客観的観察者から、主観的な主人公に移行して行くのをまさに表現している。(そしてここではキッドの離人的傾向からの物語による回復でもある)
・村上春樹『1Q84』では今まで一人称で書かれていた長編が三人称で表現されていることが随分と指摘されていた。直接『ダールグレン』での描写とは関係ないとは思うけれど、一応、メモ(^^;)。
・異世界と対立する日常の引越し描写。危うい薄氷の上のホームドラマ的箱庭世界の描写はなかなか読ませた。しかし僕らがディレイニーに期待するのは、そのようなものではない、と僕は思うのだw。ホームドラマ部分の弛緩したような文体はわざとかもしれないが、楽しめなかった。
・都市ベローナもだけれど、最大の謎は「ダールグレン」。時々出てくる名前リストに登場するだけの謎の名前ウィリアム.ダールグレン。もちろんウィリアムはビルと通称されるわけで、ラストで特にビルに注目させているので、本書の記述者は登場人物のウィリアム.ダールグレンということになるのだろう。いくつかの箇所で登場するビルに着目。
・主人公の記憶の欠落もメタフィクション的な仕掛けであろう。実際の筆者と思しきウィリアム(ビル).ダールグレン。彼のルポルタージュとしての情報の欠落がキッド(仮名)の記憶の損傷として描かれている感じ。
・海外版の表紙としても使用される巨大になった太陽の姿は、読後にも強烈な印象を残す。だけれども全く解けない二つの月と赤く燃え盛る巨大太陽の謎。どなたか、登場する宇宙飛行士の言葉をヒントにこの星々のきらめきの謎を解明して下さい。
・ノートに書かれた奇妙な文章と、詩作の文学的談義。これらによる小説世界のイメージ構築はなかなかいい。詩的な言葉の魅力について語る部分はとてもいいです。
・時間の飛んだ新聞ベローナタイムズ。こんな新聞が発行される街に住んでみたい。おそらくここは、ディレイニーの自伝的要素がアトランダムに紛れ込ませてあることの、近似的な表現なのでないかな。
あとは他にも、たいしたことは書いてないですが、断片についていくつか僕のtwilog「ダールグレン」と「#dhalgren」のつぶやきがありますので、ご興味があれば(^^;;)クリック下さい。
◆関連リンク
・[朝日新聞書評ボツ本]ディレーニ『ダルグレン』
- 山形浩生 の「経済のトリセツ」
"全体が自分自身の一種のビルドゥングスロマンではあるんだが、でもそれを円環させることで、ディレーニは要するに「ぼくは成長したくありません、ずっと青春していたいです」と言っているに等しい。それが卑しいのだ"
"昔読んだときは「どうだ!完読したぜ!」というのが自慢だったしその価値を保つために小説そのものの悪口は言わなかった…"
あの山形浩生さんでも、そんな日よった時代がw !
そしてそれを読んだ柳下毅一郎氏のつぶやきが以下↓。
・Twitter / @kiichiro柳下毅一郎氏
"正直、オレもこの山形評はたいへん正しい、と言わざるを得ないw でもつまんないだけでもないのよ RT @tonkara1: 山形浩生さんの『ダールグレン』評。予想通りの酷評!"
・牧眞司氏 shinji maki(@ShindyMonkey)/2011.6/24 - Twilog
"ジョイス的な神話=象徴性と文学仕掛けがいっぽうにあり、ディレイニーの自伝的要素がもういっぽうにあって、それがまだらに融合している。その「まだら」さが特徴だろう。おそらく仕掛けだけに注目して読み解こうとすると、夾雑物がわらわらと析出してくる。
ちょっと困ったかんじなのだけど、そうした余分が小説としての面白さとも言える。まあ、屈折した人種問題や芸術がらみの議論、セックスのどうしたこうした など、ちょっとクドいよという部分もあるけれど、こうしたのは読むひとの興味の度合いでナナメ読みしても、ぜんぜん支障なし。"
"刊行を記念して、SF翻訳家の柳下毅一郎さんと、SFと黒人文化に詳しい丸屋九兵衛さん(ブラック・ミュージック専門誌「bmr」編集長)をお迎えしてトークイベントを開催。
【日時】 2011年7月30日(土) 開場:17:30〜 開演:18:00〜
【会場】 三省堂書店神保町本店 8階特設会場
只今、6月22日発売予定の『ダールグレン』(国書刊行会)1・2巻どちらかを当店でお買い上げまたは電話にてご予約のお客様、先着50名様に1階レジカウンターにて整理券を配布しております"
参加された方、是非、レポートを聴かせて下さい。
・エル・マルヤッチ powered by bmr :黒人ゲイじいさんの集い。カモンヨー!
丸屋九兵衛氏のBlog記事。他にもディレイニーについての記載がいろいろとある。ディレイニー記事 丸屋九兵衛氏Blog - Google 検索
2011.7/20追記
・サミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』(1巻)感想 - Biting Angle
"まだ半分しか読んでないので断言はできないけど、ここまでの印象としては、ディレイニー版の「アリス」なのかな?という感じ。 なにしろ性別や人種といった(いわゆるアメリカ的な基準からすれば)既成の価値観がことごとく裏返しになっているところが なんだか『鏡の国のアリス』を思わせるし、全編にばら撒かれた性描写には、言葉あそびの代わりに様々な性的プレイを用いて 物語を組み立てようとしてるんじゃないか・・・などと思わせるところもあります(中略)
3章の「斧の家」でリチャーズ一家が延々と繰り返す 「街全体が崩壊しているのに、そこだけは普段と変わりがない日常を営む姿」は、鏡によって裏返しになった 「マッド・ティーパーティー」にあたると思います。"
当究極映像研東京分室2(^^;) "Biting Angle"の青の零号さんの1巻レビュウ。
ここの指摘が僕にはとても新鮮でしたので、引用させていただきました。2巻レビュウも楽しみにしてます>>青さんw。
当Blog記事
・新刊メモ S.R.ディレイニー『ダールグレン:Dhalgren』
・S.R.ディレイニー『ダールグレン:Dhalgren』舞台化 Jay Scheib "Bellona, Destroyer of Cities"
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コメント
青の零号さん、亀レスでごめんなさい。
現在、7/30 11:20。ツィッターでの東京分室付現地工作員(^^;)の『ダールグレン』トークショーレポート待ちです。あ、そろそろ書き込みが始まったw。ありがとうございます。
>>鏡といえば、エンボリキー・デパートで一瞬だけ出てくる
>>鏡像の姿、あれはたぶんディレイニー本人ですよね。
おー、これは全く気づいてなかった。
>>だから山形センセが「また自分の話ですか。またジャンル小説ですか。」
>>とお怒りになっても、だって元からそういう作家だったし~
うーん、実は僕はそういう認識は他の作品には持っていなくって、、、、w。
遡って読み直すと、そういう風に読めるのかもしれないのですが、20代に読んだ僕のディレイニーは、華麗な煌めくイマジナリーなSFを書いてた記憶w。
たぶん『アインシュタイン交点』以外、邦訳ですが全部20代に読んだような気が。(『バベル17』は中学生だった)
なんだか、読み直すのは止めた方がいいかもw。
投稿: BP(青の零号さんへ) | 2011.07.30 23:33
どうも、東京分室付現地工作員・青の零号です。
(お、なんか忍者チックでいい感じかもw)
鏡といえば、エンボリキー・デパートで一瞬だけ出てくる
鏡像の姿、あれはたぶんディレイニー本人ですよね。
あと、キッドの特徴である「偏平足」は、『アインシュタイン交点』の
ロ・ロービーの特徴でもあったりします。
実はあちらも、ミューズを失った未来のオルフェウスが
過去の自分に打ち勝って文才を取り戻す話と読めば
まるっきりディレイニー自身のお話。
だから山形センセが「また自分の話ですか。またジャンル小説ですか。」
とお怒りになっても、だって元からそういう作家だったし~、と
あんまり責める気にもなれない私です。
要はディレイニー自身がマルチプレックスの権化たる
コンプレックスの塊で、その本人を紐解くこと自体が
『ダールグレン』を読む行為と直結するのでしょう。
それを楽しいと思うか、それとも苦行と感じるかが、
好き嫌いの分かれ目になりそうです。
・・・確かに新聞の書評には載せにくいですな、こんな小説(^^;。
私は結構好きですけどね。
投稿: 青の零号 | 2011.07.23 00:46