■感想 加藤 泉『はるかなる視線』展 @ アートスペースSix
会場で配布されていたフライヤー(折って立体的に立ち上がるw)と作品解説のチラシ
加藤 泉『はるかなる視線』 展
画家、加藤 泉の不思議な世界がアートスペースSixに出現
" 7月9日(土)~ 9月11日(日) @アートスペース Six
大阪府大阪市中央区南船場3-12-22 心斎橋フジビル 2F
tel.06-6258-3315 開館12:00~19:00 月休(月曜が祝日の場合は営業)"
会場で配布されたポスター(この下、二つ目の写真)裏面より
"文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、自らの著書のタイトルをどのように付けるかを考え抜いた挙げ句に、世阿弥の『風姿花伝』の中に「離見の見」という言葉を見いだし触発され、「はるかなる視線」というタイトルの名著が誕生した。「離見の見」とは、演技を行なうときは自分の眼で見る「我見」ではなく客席からの「離見」によって見るべきで、それによって観客と一体化する「見所同心」の境地に達するという意味である。
加藤泉こそまさに人間という存在を「離見の見」の視点によって作品化しているアーティストと言えよう。グローバル化した世界観の中で、敢えてこの作家は、人間を自然風景の中に佇ませ、その風景に融け込ませることによって、文明化され強い自我を持った人間存在そのものを根底から捉え直そうとしている。人間の手足の先や身体の突起物から花が咲き、 眼が吹き、根が生えてくる。加藤は、現代人においても魂や身体性には原初的な風景が潜在していることを信じており、それを顕在化させる試みを繰り返している。レヴィ=ストロースは「離見の見」を「はるかなる視線」と訳し、離れた文明のが輪から自らを見る文化人類学の思想の表現だと考えた。
人間中心主義の自我が肥大化した現代社会の中で、加藤泉を迎え入れたSixという空間領域は、あたかも生と死が循環する大地のような存在と化す。本展覧会では、未発表の絵画シリーズを含めて、彫刻作品や絵画作品がSixに自生するかのようにインスタレーションされる。そこには、自己と他者の境界領域を軽々と 跳躍し、「はるかなる視線」を蓄え込んだもうひとつの文明圏が現れる。"
8/11(木)に大阪で加藤 泉『はるかなる視線』 展を鑑賞。
以前に豊田市美術館 内なる子供展で、絵画は観たことがあったのだけれど、彫刻は初めてなのでワクワクして、熱帯の大阪心斎橋の雑踏からアートスペース Sixのエレベータに乗った。
エレベータを降りてアートスペース Sixへの白い通路を歩いて行くと、観えてくる巨大な四脚の立像(作品解説チラシ下段右。加藤泉の作品は全て「無題」なので識別のため『加藤泉作品集 絵と彫刻』の掲載ページを記載(以下同)P36,38)。
赤い額が突出し黄色い石の眼の印象的な顔、黒いグラマラスなボディと細く伸びた四本の脚。口と胸から出ている植物の芽によって高さは2.1mと巨大な彫像。
特に眼が素晴らしい。黄色の透明感がある大きな石を中心に各4つのそれを取り囲む小さな石で構成されている。荒く削られた樹の質感と、この石の対比が見事で凝視してため息が漏れること頻り。
そしてSixの細長い室内に飾られているのは、彫像3点とそれを区切るように、床面に背中合わせに3組立てられた絵画6点。
真ん中の彫刻は鉄製のベッドに横たわる緑色の顔と体に赤い髪の幼児(チラシ下段左、作品集P2,3,51)。
幼児と思わせるのはその頭と体のバランス故なのだが、実は体は大人の女性の体ではないか、と思わせるようなカーブを持っている。
そしてこれも体から植物が3本生えている。口から出た茎の先には、花弁が咲いている。
三つめの彫像は、床に横たわる3体の人(父母子の親子か)(チラシ下段中央、作品集P39)。体は薄い黄緑と茶。先の二作品と異なり、植物が体から生えているのでなく、直接天に伸ばした手脚が植物の茎となり葉を芽吹いている。
直接、コンクリート打ちっぱなしの床に横たえられていることによる冷たい感じと植物の暖かさが、これも異様な迫力を生み出している。
全体として、巨大な木彫に透明感のある彩色。回り込んで何度も観たくなるこの魅力。帰りたくない、というか連れ帰りたい(^^)という強い願望を齎してくる作品群である。
彫像の顔がいつまでも観てても飽きない。何故かレントゲンで透視したかのような色彩と石が嵌められた深い眼。ちょうど体格は大人ぐらい。そして横たわる姿の持つ哀悼感(こんな言葉はないかもしれないが、哀愁ではなく哀悼と思わず書きたくなるイメージなのである)。
とにかく圧倒的な存在感にその場を何度もグルグルと徘徊して眼を虜にされ、その空間に馴染んでいく鑑賞者の体と心、といった感じ。
あえて分析的に書くならば(僕はまだ充分に加藤泉の作品を観ていないため、言語化してまとめるのは躊躇われるのだが、あえて現時点で書いてしまうとw)、
この体の大きさによる圧倒的な存在感とその透明感のある色による非実在感、このぼんやりと幽界を彷徨うような風情。そしてそこから天に向けてくっきりと伸びた植物のコントラストが、加藤の彫像のイメージを形作っているものだと思う。
大人とも子供ともつかない、中間的な成長しきれない人間、そういった病的なものをイメージさせる巨大な子供のような/大人のような体。
そして眼だけがくっきりと明確な石の意志に彩られて、さらに活き活きと伸びている植物による再生のイメージ。
安直には語れないけれども、何故だか、プリミティブでアフリカを連想させる外観の人だけれども、これは日本人そのものではないか、と感じさせる。そして植物と眼で表現される再生。
汲めどもつかない加藤泉作品の魅力であるが、どこかそんな言語化を強制させてくるような雰囲気をひしひしと感じさせる展示であった。
とにかく今後ももっと作品を直に観てみたいと感じさせる素晴らしい作品です。皆さんも機会があれば是非。
◆関連リンク
・屹立する空間にて シックス 加藤 泉『はるかなる視線』 展
"具体的なメッセージを読 み取らせるモチーフは描かれていないものの、私たちを見据える人物の巨大な頭部は、どこまでも深い知をたたえているように見える。この絵が示唆する「漠然 とした何か」は、人間と世界との関係性に問いを投げかけ、立ち止まって再考させるような、スケールの大きな世界観である。(文=林 央子)"
評論記事、あの空間が持っていた雰囲気をとてもうまく再現されている。
会場の写真も4点掲載されているので、是非、リンク先を御覧下さい。
・ 「はるかなる視線」展 生命の根源に触れる感覚(産経新聞)
"いまだ誰も分け入ったことのない緑深い原始の森にたたずみ、根源的な生命体と向き合っている-" 紹介されているデフォルメされた写真がリアルに雰囲気を伝えています。
・8/2読売新聞に加藤泉さんの記事
震災とアートについても述べられている。今回の作品集に載らなかった1994年以前の作品にも興味が湧く。
・加藤泉 日本の新鋭アーティストの形を持たない怪しい胎児達 | デザインブログ バードヤード.
1992年に卒業後15年間、資金練りと家族、アート活動を天秤にかけながら細々と展示に出すも毎回売れず、絵画の賞金を狙って家族で生き抜く資金を稼いだりと、正に苦節の日々でした。
作品が世に認められるまで15年間の苦節の期間があったのですね。知りませんでした。作品紹介含め良記事ですね!
・ソフビ彫刻作品集『加藤泉 Soft Vinyl Sculptures』本日完成
@lindentoyさんからの情報。発売が予定されている本とのことです。期待!
・『加藤泉作品集 絵と彫刻』 青幻舎
"インタビュー:加藤泉×青野和子(原美術館主任学芸員)
アートディレクション:重実生哉
◆判型・仕様:B5判 2分冊(油彩120頁、彫刻64頁)◆函入り
◆定価:3,990円(本体3,800円+消費税)"
・Izumi Kato Soft Vinyl Doll in Exclusive Colors for the Hara Museum (Hara Museum Online Shop)
原美術館オンラインショップで通販されているソフビ
当Blog記事
・感想 『加藤泉作品集 絵と彫刻』
・新刊メモ 『加藤泉作品集 絵と彫刻』と出版記念展
・豊田市美術館 内なる子供
・加藤泉「人へ」 : KATO Izumi - Dear Human(ARATANIURANO(アラタニウラノ)こけら落とし)
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