■レポート シネマトグラフ:日本における映画の始まり 講演 森脇清隆「京都の映画——アートとエンターテインメントが交錯した時代」より
プレイベント[作品展示]ウィリアム・ケントリッジ《時間の抵抗》 | PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭
"プレイベント アクセスプログラム
[映画技術史]「京都の映画——アートとエンターテインメントが交錯した時代」 講師:森脇清隆(京都府京都文化博物館学芸課映像・情報室長、PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015プロフェッショナルアドバイザリーボードメンバー)
日時:2014年2月15日(土)15:00–16:30
会場:元・立誠小学校 スタディールーム(1階 木工室)ウィリアム・ケントリッジの作品展示が行われているこの場所(立誠小学校跡地)で、日本で初めてシネマトグラフがスクリーンに動く画を映し出した。
シネマトグラフ以降、1930年代には、京都は「日本のハリウッド」と呼ばれ、エンターテインメント映画の都になる。そして同時期、映像表現を美学的に捉えようとする動き、そして、ドキュメンタリーとして捉えようとする動きも活性化した。これら京都独特の潮流の源はどこにあるのだろうか。
日本の映像表現の原点になった地でウィリアム・ケントリッジ作品が展示される。この機会に、京都での映像表現の歴史を1930年代までのピュアな潮流を中心にふりかえる。【文・森脇清隆】"
先日レポートしたウィリアム・ケントリッジ《時間の抵抗》展に合わせて開催された講演会。
そこでまず語られたのが、会場となった元・立誠小学校の場所が、日本で初めて1897年にリミュエールのシネマトグラフ(右写真)が日本に運ばれ、上映された場所であったという事実。
まさに日本で映画がはじまった歴史的な場所にいる、という考えてみなかった体験にヤノベ×吉本観劇の京都ツアーに素晴らしいおまけが付いた気分(^^;)。
森脇氏の講演によると、この場所は元・土佐藩藩邸で京都電燈という電力会社が当時あったという。
1895年にフランスでリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフを、稲畑勝太郎という軍服用のための化学染料を学ぶべくリヨンに留学していた方が、その大学でリュミエールと同級生であった縁から、2台をお土産に日本に持ち帰ったのだという。
フランスからの船旅である故、神戸、横浜で荷を降ろしたので、まず西の京都が日本初の上映になったのだという。
場所としてここでの上映となったのは、当時、電気を作ったが買い手を探していた電力会社が眼を付けたのが京都の祇園。夜の照明としての電気消費が期待できたから、という。
稲畑の帰朝講演で上映しようとした際は、電圧違いで壊れたためそれを島津製作所が直しここで初めて動いたとのこと。
正確な日にちの記載がなく、1897.1月ー2月の雪の日ということしかわからないらしいのだけれど、この講演のあった2月15日がその日であったかもしれない。
シネマトグラフ - Wikipedia
"リュミエール兄弟が発明したとも、レオン・ボウリーが発明したとも言われている。 一説には、エジソンの開発したキネトスコープを、リュミエール兄弟の父であるアントワーヌが1894年のパリにて目の当たりする。これをきっかけに、息子 兄弟に動画の研究を勧め、キネトスコープを改良、映像をスクリーンに投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できるシネマトグラフを開発。リュミエール兄弟は特許を取得したとされる。"
"スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき込む形になる。当時は「ピープショー」とも呼ばれた(ピープ(peep)とは、のぞくという意味)。一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投影される形の映画(シネマ)は、リュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明(1895年)を待つことになる。 日本でエジソンが発明したキネトスコープを初上映したのは神戸の神港倶楽部で、1896年11月25日から12月1日までであった。日本の映画の日が12月28日から12月1日に変更されたのは、この日付に因むためと言われる(リュミエールが発明したスクリーン式の「シネマトグラフ」は1897年、大阪の南地演舞場や京都で披露されている)。"
エジソンのキネマトスコープは上映する現在の映画とは別のもの。まさにプロジェクション方式の今の映画は、シネマトグラフではじまった訳である。
講演は、そこから京都と映画の深い関係についての、さらに興味深い話が続く。以下、箇条書きで要点(と一部僕のコメント)をレポートします。
・その後、日露戦争での戦艦の映像が紹介される。戦記高揚のリアルな画像。
・初の劇映画は『ピストル強盗清水定吉』(1899年)
・牧野省三『本能寺合戦』(1908)は横田商会の制作。この横田商会は映画の前は、レントゲンによる舞台に骨の映像映す興行を催していたという。X線による映像を興行として見せるというのは凄い、まさに見世物小屋。
・東京はカメラマンがディレクター。京都は牧野省三のように舞台のアートディレクターが監督。
・京都は時代劇、歌舞伎、講談+SFX 特撮=忍術映画。これらのために江馬務らによる時代考証が進んだ。
・当時の時代考証は絵画で進んでいた。日本画家は、一子相伝で風俗考証のアーカイブを持っていた。
・当時のフィルムはISO(ASA)16程度のため、二条城のスタジオ等、ガラス張りで日光を照明にしていた。
・時代扮装実演会というのが1915年に開催されたが、これはほとんど今のコスプレ大会。
・溝口健二『元禄忠臣蔵』(1941)は時代考証として江戸城を正確に再現していた。
・京都市立絵画学校という現在の市立芸大の前進は、アトリエ座というグループがあり、東映の美術スタッフの供給源となった。
京都の芸術大学のルーツに、映画の京都の撮影所の存在が深く関係していたというのは、なかなか興味深い事実でした。
たいへん映画について面白い話を聞かせて頂き、この講演の企画者の方々と森脇清隆さんにここで感謝します。ありがとうございました。
◆関連リンク
・フィルムシアター | 京都府京都文化博物館
・東京国立近代美術館 フィルムセンター様 | 事例紹介 | IMAGICAグループ
ここに日本最古の映画『紅葉狩』のデジタル復元について触れられた記事とそのシーン写真が掲載。
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