■感想 スタニスワフ・レム著、沼野 充義訳『ソラリス』: Stanislaw Lem "Solaris"
"惑星ソラリス――この静謐なる星は意思を持った海に表面を覆われていた。惑星の謎の解明のため、ステーションに派遣された心理学者ケルヴィンは変わり果てた 研究員たちを目にする。彼らにいったい何が?ケルヴィンもまたソラリスの海がもたらす現象に囚われていく……。人間以外の理性との接触は可能か?――知の巨人が世界に問いかけたSF史上に残る名作。レム研究の第一人者によるポーランド語原典からの完全翻訳版"
冒頭の画像は、Stanislaw Lem "Solaris" - Google 画像検索によるもの。いずれも書影のようで、世界各国でこの名作が読まれていることがここからもわかる。
今回、僕は本書3度目の読書。
以前は、飯田 規和訳『ソラリスの陽のもとに』を二度。今回、はじめて沼野充義訳を読みました。
もちろん、今回も異星の存在の不可知性とソラリス学という架空の学問体系のディテイルは圧倒的で、傑作の感を再度体感したのだけれど、今回、僕が違和感を持ったのが、世にラブ・ストーリーと称される、ケルヴィンと幽体Fのハリーとのシークェンス。
これは本当にラブ・ストーリーなのだろうか、という疑問。ここで登場するハリーは、あくまでもケルヴィンの記憶から抽出し「ソラリス」によって再構成された物体でしかない。ハリーというケルヴィンにとっての他者ではなく、あくまでも彼の記憶に刻まれた、情報としてのハリーに過ぎない。
多くの男性作家によって書かれたラブ・ストーリーが、男のイメージで描かれた女性像でしかない、と言って仕舞えば、まさに本書はラブ・ストーリーそのものかもしれないw。ケルヴィンの内部的な存在が実体化した幽体F ハリーが、自身の有り様に気づき悩むところ、ここも男の夢想としての恋人の悩みを描いているとみれば、なかなか味わい深いストーリーであるが、今回僕がモヤモヤと感じたのは、以下のような別の夢想である。
本来、男と女(もしくはひとりの人類と別の他者でも良いけれど、、、)という、ある種異質な存在同士の交接を描く物語がラブ・ストーリーの本来の語義であるわけで、そうしたものと正に異なるのが、「ソラリス」上空でのケルヴィンとハリーのシークェンスなのである。
異星生命体の徹底した異質さを描いたレムが、もし人類のペアの異質な存在性をも深相まで沈んで書き上げていたら、、、というようなことを夢想しながら今回は読み進めた。
例えばハリーの情報は、ケルヴィンの記憶からだけでなく、地球との通信ネットワークを用いて、別の情報もソラリスが捉えていたとする。その情報によりケルヴィンが体感する、自身の記憶の存在と、他者ハリーの異質性。
あくまで言語的な記憶(意識かな)により構成された幽体F ハリーが当初ケルヴィンの前に現れる。そしてその後、更新され、言語的情報以外(例えば映像による身体的情報かも)も含めて、新たに表現された幽体F' ハリー。
異質な知性である海と対比して、ステーション内でもそうしたものに徹底的な異質をケルヴィンが感じ、そして人類の認識の限界を両面で体感する。
フラクタル的に描写されて、異質な知性への幻惑が、ミクロな2人の関係とマクロな惑星レベルの両面で、圧倒的なパワーで読者の脳内に解凍されるそんなSF。レムが現代の作家であったなら、もしかしてそうした意識と意識以外の知覚の両面の描写で描いたかもしれないなぁ〜と、そんな夢想をしながら読んだのでした。
ラブストーリーを中心に描いたソーダバーグでは期待しようもない、そんな解釈の3度目の映画化、というのもあっていいかもしれないですね(^^;)。
◆関連リンク
・ワルシャワのバラエティ劇場で開催された『ソラリス』の舞台(Google 翻訳)
すぐ上の写真はここから引用しました。
・【受付終了】『ソラリス』解説文アンケートのお知らせ|SF MAGAZINE RADAR|SFマガジン|cakes(ケイクス)
牧眞司、菊池誠、中野善夫、島村山寝、岡本俊弥、大森望各氏による『ソラリス』解説文。
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