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2015.10.14

■感想 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

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映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』オフィシャルサイト

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』ブルーレイ初見。

 ひさびさに天才的な仕事を観ました、遅まきながら素晴らしい映画ですね。

 ワンカットを模した長回しによって描かれる、主人公を取り巻く土壇場の現実の複層的な様相。混沌と狂騒の芝居初日へ向けた緊張感の高まりとやけくそ。その間の登場人物の関係の複層が、ひとつの芸術論として、そして悲喜劇として、スクリーンに立ち上がる。
 全体が、映画の、芸術の、精神世界に降りていく時の狂気そのものを描いているように感じた。

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 エンターテインメントで一時、顔が売れたが、その後、鳴かず飛ばずで離婚を経験し、家族関係も破壊したかのような絶望的な状況にいる「バードマン」俳優の主人公リーガン・トムソン。
 彼が人生の逆転を賭けたのが、自身脚本・演出・主演する芝居、レイモンド・カーヴァーの短篇を脚色した「愛について語るときに我々の語ること」(原題は"What We Talk About When We Talk About Love" 直訳は「...我々が語ること」なんだけれど、ここは村上春樹訳に従いました)。

 作中劇として描かれるレイモンド・カーヴァー作品を模したように、映画は深く全体に横たわる闇の予兆に満ちた現実を描く。さらにそこを揺さぶる超能力と映画的スペクタクルな幻想の映像を観客に提示している。

 傑作と考えるのは、正に映像でしか語り得ない複層的なイメージを、秀逸な長回しの映像によって劇場のリアルとして縦横無尽に舐めるような臨場感で描き尽くすとともに、幻想的な映像として主人公の内面をフィルムに描きこんで行くことに成功している作品となっているからである。

 ラストで明らかなように、この作品において、現実と幻想の分かれ目は明確に区分されていない。映画全体はまさしく主人公の住む世界そのものであって、リーガンにとっての、それが現実そのものである。

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 冒頭と最後にワンカットのルールを排して登場する空をゆく光球は、スペクタクルというよりは、カーヴァー的世界の不安を象徴しているようで、映画に昏い影を落としていると思うのは僕だけだろうか。

◆ワンカットによる現実の提示

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 「バードマンの全て」"BIRDMAN ALL-ACCESS (A VIEW FROM THE WINGS) "と名付けられたメイキングとインタビューを収めた32分間の映像が、レンタルブルーレイに収録されている。ここに興味深い監督の言葉がある。

"リハーサルは何度も繰り返し行うから、体を使って覚える自転車と同じだ。自転車に乗れるようになるには、何度も倒れて練習する必要がある。一度乗れるようになったら、考えなくても自然に乗れる。体が覚えているからだ。繰り返すことで身につけたものは、いちいち考えることなくできるようになるんだ。無意識にできるようになると演技が自然に見える。繰り返すことが重要なんだ。アドリブの演技は意識が働いてしまう。繰り返し身につけた演技は、速さを自由に変えられるし、すばらしいものになる。"

 ワンカットに観えるように撮った技法は、ひとつはカメラワークとして、観客にその世界に一人称で入り込ませるための目的と、加えて俳優たちが連続的な動きを無意識で体によって覚えるまでリハーサルすることで、俳優でなく映画の登場人物が持っている無意識を、俳優の体の中にインストールして、意識的でなく連続的な流れとしてそこに存在させたいという監督の想いが結実したものなのだろう。
 監督とスタッフのこの狙いは見事に成功して、映画のフィクションが、映像の中で主人公と観客の"現実"に昇華する、そんな作品になっていたと思う。

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◆長回しの技法

 前述のメイキングを観ると、そのリハーサル風景と俳優陣、スタッフの言葉から長回しがどれだけ野心的で、大変な技法だったかがよくわかる。

 かなりのボリュームが長回しで作られているように感じられる。
 ただしさすがに全体がワンカットということではなく、ところどころ分割して撮られたものが編集とデジタル処理で、ワンカットに近いものとして纏められているようだ。
 撮影用のカメラもその時々で使い分けられているようだ(右)。

 よく映画の画面を見ていると、たぶん分割してつなぐ部分は、劇場内等の暗い所で画面全体もしくは一部が黒くなった時に、次のカットに巧妙に変えているように観える。(もちろんカメラを一晩同一の設定で置いたままにするとかもあったのでしようけれど。)

 CGでずれた映像を、中割に相当する映像を作り出して繋いでいるところもあるかもしれないが、かなりはこの黒の画面を上手く使っているのではないかと推定します。もう一度、全部観て、そうしたところが何箇所あるか調べてみるのもいいかもw。これにより自然なつなぎで映画への没入度が上がっていたのだろうと思います。

◆劇中劇「愛について語るときに我々の語ること」とカーヴァーの原作

 レイモンド・カーヴァーファンとして、原作短篇(村上春樹訳)と映画の劇中劇を比較してみた。映画は短篇全てを描いているわけではないので、どんな全体の筋に組み立てられているかを想像するのも一興だけど、まずは異なる部分を挙げてみる。

・原作でメルが語った交通事故にあった老夫婦のエピソードが、ニック(マイケル・キートン)が語るように変わっている。
・原作はカーヴァーらしい、淡々とした日常的などちらかというと静かな会話でテーブルの四人が描かれているが、映画ではニックとローラがどなり合う。
・回想であるはずのエドの拳銃のエピソードがマイケル・キートンが一人二役で演じたエディというキャラクター(エドのことでしょう)で重要な場面として描かれている。
・そのシーン、エドワード・ノートン演じるメルと、その妻役ナオミ・ワッツのテリがベットインしているところへ乗り込んでくる形に変更されている。原作ではエドが一人ホテルで実行する。

 これらのシーンから、リーガン・トムソン(マイケル・キートン)が書いた脚本とその演出は、レイモンド・カーヴァーの世界をぶち壊しているように感じられる。これらの描写から、監督とスタッフはリーガンの芝居の失敗を描いているようにみえる。

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 あの原作の、淡々とした日常の会話だけで、二組の男女の関係の将来へ向けての不安と救済の希求をヒタヒタと描き出して、凄みを感じさせるカーヴァーのあの雰囲気をこの芝居は描けていないことが僅かのシーンからも明らか。

 むしろ物語全体が持っている雰囲気が、芝居と対比して、カーヴァーらしい世界を描いている。ここが監督たちの狙いだったのかもしれない。
(ということから、ニューヨークタイムズの演劇記者タビサ・ディッキンソンのラストの批評の言葉を考えると、批評家の適当さを静かに皮肉っているようにも見えますねw)。

◆「愛について語るときに我々の語ること」とカーヴァーの元作品「ビギナーズ」

 ファンには、「愛について語るときに我々の語ること」は編集者ゴードン・リッシュによって、カーヴァーの元作品「ビギナーズ」を大きく改稿したものであることは有名である(村上春樹の訳書『ビギナーズ』のあとがきに詳しい)。

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 映画の劇中劇の原作をこの改稿版である「愛について語るときに我々の語ること」の方を使ったというのが、監督ほかスタッフによる意図的なものだろう。意図は、リーガン・トムソンの芸術家としてのポテンシャルを示すためなのかもしれない。実は「ビギナーズ」と比べて先に読んだこともあり、僕はその改稿版「愛について語るときに我々の語ること」の方が好きなこともあり、なかなか複雑な気持ちなのだけれど、、、。(村上の前述のあとがきによるとカーヴァーも決定稿は「愛について語るときに我々の語ること」の方であるとしているようだけれど、、、)

 改稿されたのは「ビギナーズ」にある各登場人物の昔の部分(特に交通事故に遭う老夫婦の若い頃のエピソード等)が削られていること。これによりより物語は淡々と進み、背後にあるいろんなことを想像させる作品になっているのだけれど、ここの解釈を監督ほかスタッフはどう考えたのか、詳細を知りたいところである。(ちなみに村上春樹は両方を訳しているが、「ビギナーズ」の方を評価しているようだ)

◆その他

・リーガンの娘を演じたエマ・ストーンの存在感も素晴らしかった。『アメージング・スパイダーマン』観てないけれど楽しみになりました。
 特にトイレットペーパーで示される人類の滅亡、このシーケンス、最高でした。

・タイトルバックのタイポグラフィ(?)がカッコイイ。
 そのタイプで冒頭描かれたのが。カーヴァーの詩を用いたエピグラフ。以下、関連の記事を書かれているブログから引用させて頂きます。

バードマンを語るときに我々の語ること What we talk about when we talk about BiRDMAN.  | Pepper's Attic.

"この人生で望みを果たせたのか?
果たせたとも。
君は何を望んだのだ?
”愛される者”と呼ばれ、愛されていると感じること

元のカーヴァーの詩は
And did you get what you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself beloved on the earth. "

愛、バードマン、そしてアメリカの現実 | アルカーナ・ムンディ

"「おしまいの断片 (“Late Fragment”)」

 たとえそれでも、君はやっぱり思うのかな、
 この人生における望みは果たしたと?
 果たしたとも。
 それで、君はいったい何を望んだのだろう?
 それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって  愛されるものと感じること。"

 「おしまいの断片」というのが、元のカーヴァーの詩の訳文。
 映画の冒頭の訳し方とは、微妙に違うけれど、映画をラストまで観た後に読むとなかなかと味わい深いです。

◆関連リンク
レイモンド・カーヴァー 当Blog記事 Google 検索
 あまり記事にしていなかったですね。

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