■レポート クリスピン・グローヴァーかく語りき No.2 @カナザワ映画祭2016 ”What is it?.”上映後トークショー
”What is it?.”上映後 Q&Aとトークショウ
カナザワ映画祭2016 9/25(日) ”What is it?”上映の後の、クリスピン・グローヴァートークショーについてレポートします。
前回のレポート同様、こちらも通訳を務められた特殊翻訳家 柳下毅一郎による言葉をその場でメモさせて頂きました。早いスピードで語られるクリスピン/柳下氏の言葉を聞き違えている所もあると思うので文責はBP@究極映像研です。
このトークは、映画が21:00に終了し、その後、延々3時間あまりに渡ってクリスピンが精力的に語り続けたものである。実は僕はメモ取っていたこともあり、23:30頃にギブアップしてホテルへ帰りました。ので、最後までのレポートでないこと、最初にお断りしておきます。3時間実施されたというのは、twitterで得た情報で確かな終了時間は不明です。さらに実際はトークショー後もサイン会が深夜まで続けられたようで、凄いタフなイベントでした。
遅くまで対応されたスタッフと柳下毅一郎に、貴重な機会をいただき感謝したいと思います。
今回は、”It is Fine! EVERYTHING IS FINE.”上映後のトークショーと異なり、Q&Aからスタートしたのだが、語りたくてたまらないクリスピーにより、ほとんど質問は無視した話が続き、最後に申し訳程度にAが語られるという顛末に、、、。
◆ハンディキャプの人の映画出演について
質問「ダウン症の人について、いろいろ自分も考えたが、どう思っているか?」
彼らはダウン症の役をやっているのでない。
ハンディキャップの人は、もっと映画に出てもよい。彼らで表現が広がる可能性あるのに他の映画で出ていないのは残念。
(”It is Fine! EVERYTHING IS FINE.”の映画の予告篇上映)
スティーブンは重い障害を負っている。別な物を啓発しようとした。
自分の心理的反応を描いた。商業映画30年の、不快な物を排除しようという圧力が働いている。観客、こんなものが映画になっていていいかと、観客のタブーに触れることを目指した。
こうした映画の描写が心に問いかける。もともとエデュケーショナルという言葉は、自分の問いを内側に問うていくこと。商業映画はそれをなくしてる。
”It is Fine! EVERYTHING IS FINE.”スティーブンの出演第2作は、まさにタブーを扱っている。内容は全く違うが、同じ問いかけをしている。
(ここからスティーブンの養老院、殺人ミステリTVの話。前回のトークショーレポ参照)
◆映画技術の”進化"について
質問「カナザワ映画祭は今年で終わり、ロキシー劇場も50年の歴史を閉じる。カナザワ映画祭をどう思うか?観客とカナザワの街について何か思うところがあればコメントを。」
"What is it?”は、9年間かかって完成し、2005年にサンダンスでプレミアム上映した。
以来11年世界中をツアーしている。その間のテクノロジーの進化は凄い。でも35mmはとても優れた技術だと思う。
映画にニューデジタルテクノロジーが入ってきている。デジタルが35mmを置き換える。しかしデジタルで安くなるというのは嘘である。
フォトカムというフィルムの管理所に、例えば"What is it?”のDCPはいくらかかるかと聞いたら1万ドル。35mmフィルムを焼くのと同じ値段。
プリント持って回っているので独立系劇場の映写技師、オーナーと話す。往々にして彼らは35mmのコレクターである。2005-10年でDCPが義務化され、デジタル上映のため劇場に数千ドルの費用負担が課せられた。これがないと、新作が配給されない。大きな劇場はその予算なんともないが、独立系オーナーは、ポップコーン代で何とか劇場を維持していて、5、6干ドルの投資はとても大きい。
またDCPは投影システムに付属するPCのアップデートのため、数年ごとに入れ替要。35mmは百年間一緒だった。デジタルのシステムは大会社と子会社が儲ける仕組みに組み込まれている。
これは映画と関係ない様にみえるが、大きく関係している話。
映画のシステムは芸術の一部のはずが、会社の商業に支配され、間違った方向へ進んでる。
◆映画を支配するプロパガンダ
(クリスピンがスマホで検索し確認しながら)1928年、エドワード・バーネイズがプロパガンダという言葉を英語で初めて使った。
バーネイズはフロイトの甥。フロイトをアメリカヘ呼んだ。メディアが無意識をコントロールしていると言った人。民主主義、知識による操作、見えない政府、支配する力。
今年、アメリカの政治が大資本のコントロール下にあることに民衆は気づいた。民主党のバーニー・サンダース候補が訴えた。"What is it ?"も大資本の支配を訴えたものである。サンダースによってなされた様な民衆の動きはとても嬉しい。
1984年『バックトゥザフェーチャー』に出演したが、疑問がありシリーズの2,3には出なかった。あの映画はプロバイダと近い。第1作のオーディションでエージェントと相談。2つの役、2人の父を一人の役として演じるということで、これは良い役と思い受けた。
マイケル・J・フォックスの役は最初5週間、別の役者で撮っていたが、役者を変えることになった。同じシーンとりなおした。
脚本もらってから監督のゼメキスと相談した。最初の脚本と映画のラストが変わっている。
最初の脚本ではマクフライファミリーはお金持ちになり、黒人の召使いを雇うとなっていた。ゼメキスに意見した。これだと観客の好感が落ちる。私だけでなく他の人も疑問を言ったのだろう、ラストはビフが召使いになるものに変わった。映画としてその方が良かった。
ただそれでも納得いかなかった。この映画はお金が主役になっている。最終目標はお金を儲ければ成功だと刷り込もうとしてるようにみえる。ゼメキスにもそう話したが、彼は怒っていた。君は変な映画好きだからネ、それで『ユーズドカー』は売れなかった、と。俺は金持ちに成りたい、とゼメキスは言っていた。
怒ったのは彼もわかっていたからだろう。お金は映画を作り宣伝するメジャーにとって良いもの。リーマンショックでもプロバガンダした人は損してない。プロパガンダをし掛ける人がいつも儲けている。
これと同じことをサンダースも言っている。政治家への献金は合法的買収。映画も作るための活動は正しいかもしれないが、これからも圧力は強くなっていく。
アメリカを世界の警察、道徳基準と信じられる様、米大企業はミリタリーアクション映画を作っている。
例えばメタファーとしてエイリアンの侵略に、どこにでもあるアメリカの一家が戦う。これはまさにプロパガンダ。ビジランテ物も、敵と戦って勝つ。独立戦争も。
実際はアメリカが最大の軍事国家なのに、いつも(軍事支配する)帝国と戦う映画を撮っている。
もう一つの小さなプロパガンダは、非モラルとして描かれるぶち壊す快楽。
こういうことを話すと、君は考えすぎだ、映画は楽しめばいいんだと言う人もいるだろうが、それこそ、プロパガンダにやられてる。
サンダース負けて、クリントン、トランプとも(資本側の政治家で)だめだと思う。しかしアメリカはこの選挙戦で大資本のコントロールを知ることが出来た。
(柳下氏と一緒に通訳に立たれていたスタッフから元の質問を再度尋ねられ) カナザワ映画祭は、大変重要。プロパガンダに抗うホール。
映写のコントロールで、独立系はつぶされてしまう。一番好きなのは、50年代のボードヴィル劇場。そういうのが潰れている。前回来日した8年前より大きな映画祭に成長している。決まり切った大資本の映画でない物に観客が集まってくる。プロパガンダと言わなくても観客はわかっているのだと思う。
◆次回作
チェコにNPOで現象所持っている。35mmフィルムで映画を続けられる様にする。
デジタルプロジェクションは良い所ある。一世代焼く回数減って画質がよくなる。ただしフィルムの粒子とフリッカーは失われる。
次回作は、ITトリロジーとは別の一本。
◆”What is it?”について
質問「映画に登場するハーケンクロイツの意味は? マンソンの曲も使用されているが、彼も一時ハーケンクロイツ使ってた。何か意味があるか?」
96年に2人の脚本家が持ち込んできた企画。私が監督して、本も書き直していいならやると言った。それに合意して作業を始めた。
当時はディヴィッドリンチがエグゼクティブPでお金を集めるはずだった。
(昨日の”It is Fine! EVERYTHING IS FINE.”の話の一部繰り返し)
元々86分を72分にして、一部撮りなおした。
ダウン症の役ではない役を演じている映画。タブーが何故なのかを問いかけている。
主人公と対立構造を作るためのスティーブンの出演。そしてマンソンやハーケンクロイツはタブーを入れるためである。
大資本の映画でもそれらは出てくるが、良い物と悪い物を明確に区分けして提示している。観客に考えさせない。映画は有機的で意図しない偶然がある。これを観客に具体的に指し示す様なことしたくない。
◆35mmブローアップ
質問「”What is it?”の16mmから35mmへのブローアップどうやったか?」
16mmはHDより粗い。HDモニタに映してそれを35mmに撮った。現在、35mmネガをスキャンして簡易デジタル化している。
◆映画へのスタンス
質問「タブーにあらがうのにはエネルギがいる。そのエネルギはどこから?」
13才からエージェントと契約し俳優をやっていた。俳優は仕事としていいと思ってた。その前、地質学者やりたかったが、岩を砕いて何か水晶とか見っけるのとは違う仕事だということがわかった。
13才は子役としては年をとっていてそれほど仕事なかった。その後プロに。
20才まで俳優学校で勉強、映画におけるアート、人に疑問を持たせる仕事としてやりたくなっていた。
そしてその後、出る映画への欲求不満で仕事を選ぶようになった。心理的に満たされる役をやろうと思っていた。8,90年代役は役にめぐまれなかった。
(2000年~ ”It is Fine! EVERYTHING IS FINE.”撮影後のスティーブンの入院の話。そしてチャーリーズエンジェルの話。
この後、15分程度話は続いたようですが、僕が力尽き会場を後にしましたので、失礼します)
◆トークショー感想
(以下は2回分を聴いての、BP@究極映像研による感想です)
とにかく素晴らしいサービス精神の表れか、はたまた自らの映画についてしゃべり倒さずにはいられない性分なのか。特に2日目のQ&AのQから逸脱した語りの世界は、ある部分鬼気迫るものがあった。
終始落ち着いた、紳士的な口調であるが、特に映画のプロパガンダについて述べたくだりは、陰謀論的な色合いが入り、観客は少し引き気味であったことは否定できない。
ただ、ハリウッド映画に関して、クリスピンが訴える様に、メジャーの意図であるかどうかはともかく、あのようなヒロイズムが前面に出た映画群が出来上がっているのは、僕も意識的にしろ無意識的にしろ、アメリカの精神性の表象であることは間違いないと思う。アメリカ映画論としてもこの切り口は興味深い。
そしてそうしたことへのアンチテーゼとして彼の撮った映画は、ハリウッド映画に大きな疑問符を投げかけることを目的としているという。あまりに映画の意図を前面に語られると、映画自身が持ち得たいろんな可能性がスポイルされるようで、どうかとも思うが、彼の言っているテーマが映画から明確に伝わってくるのは確かな事実である。ただしどこかそんな見方だけでない、深みをあの映画たちは獲得しているように見える。
グローヴァー監督があれほど熱意をもって語る理由は何か、なーんてことも思わざるを得ない。
もしかしたら、アメリカでのタブーに触れてることで、何かそれについて論理を語らないと自分の気が済まないような西欧の縛りを彼自身が背負っている証明なのではないか? 日本人の僕にわからない、強固な西欧近代の持つ秩序。そんなものに対抗するのは、彼ほどの異端を覚悟した人にとっても重いものなのかもしれない。
なので、彼は論理的に自身の映画をあれほど雄弁な言葉で語らざるを得ないのかもしれない。
映画はもっと芳醇なイメージを持っているはずなのに、彼がそうした縛りに対抗するためにテーマを語るほどに、彼の映画も両極の片方である、ある種のプロパガンダを表現してしまうというジレンマも持ってしまっている様に感じられる。
前回の記事 ”What is it?”の感想で述べたように、僕は日本映画が描いているアプローチ、『あん』とかの描写の方がテイストは全く違うけれど、同様なアンチテーゼを芳醇な映画として表現しているような気もするのだ。
全然違う映画を比較することに無理があることは理解しつつ、、、書かずにいられないのが、ここの研究所の特徴だったりするので、悪しからず(^^;)。
クリスピン・グローヴァーのとても刺激的な映画の語りに、カナザワ映画祭10年の成果を、最後の年で初の参加者ではありますが、肌で感じることができました。クリスピンの次回作の上映は、やはりこのカナザワ映画祭しかないような気がして、是非とも今後の復活を期待したいと思います。
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