■感想 入江悠監督『太陽』(2016) 、前川知大演出『太陽』(2016)
キュリオのひなびた村の光景、対するノクスの近代的な都市等、どこかSFチックな映像を見事に見せてくれて、まず映画的な世界の広がりに感嘆。
宇多丸『太陽』を語る!by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月30日放送.
"「村としての日本、村人としての日本人」。もっとはっきり言えば、こういうことですね……「オラこんな村、イヤだ!」っていうね。「オラこんな村、イヤだ! ……でも、我々はここで生きていくしかないのだから……」っていう、こういう話をある意味、入江さんは毎回やっていると言える。"
という評もあるが、確かに入江悠監督のテーマとしてそうした描写は必然的だったのかもしれない。しかし僕はしっくりこない。
キュリオとノクスの世界の接触による異文化SFとして期待したものが、なぜ、昭和的日本人のムラ世界の湿度の高い世界描写に収束しなければならないのか。特に芝居にはないレイプシーンにはガッカリ。陰湿なムラ世界描写の協調かもしれないけれど、その前のシーンで太陽の下での若者三人の溌剌とした世界を描いていながら、ノクスとの対比で本来最も特徴的に描けたはずの太陽の光の下でのキュリオの世界描写を相殺してしまっている。ここが最も残念なところだった。
そして芝居版。
こちらは映画とは逆のテーマが描かれている。人工的なノクスの論理的世界に対して、太陽の下で奔放な芸術、職人スキルでの突出(主人公 鉄彦の紅茶に対する深い理解)。ヒロイン結の変貌は映画も演劇も同様に描いているが、その後の鉄彦のとる態度で、逆の意味合いを持たせた芝居の方が僕は好きなテーマだった。
映画は芝居で描けない太陽の光の描写を映像として思う存分にできるため、本来映画化ではそこがもっとも強いイメージを残せるはずで、それがテーマ的に消化するのは、芝居が描き出したテーマだったはず。
映画は、入江監督のこだわりのテーマでタイトル『太陽』の持つ意味を否定してしまった。この映画化は監督とのミスマッチで、せっかくの良い映像を撮っているのに、それを十分に生かせず、芝居に対してテーマ的に力を失ってしまったのではないか、というのが僕の比較して観た感想です。
◆関連リンク
・イキウメWeb 『太陽』2016
・イキウメWeb 通信販売ページ 前川知大演出『太陽』DVD
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