■感想 「高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの」@東京国立近代美術館
「高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの」@東京国立近代美術館
"会場:東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー
会期:2019年7月2日(火)~10月6日(日)
開館時間:10:00-17:00 ( 金曜・土曜は10:00-21:00 )
休館日:月曜(7月15日、8月12日、9月16日、9月23日は開館)、7月16日(火)、 8月13日(火)、9月17日(火)、9月24日(火)"
本業の出張ついでに一泊して、開催第1週の週末 7/6(土)に行ってきた。情報量が凄いと事前情報を聞いていたので、朝一番10:00に入って、昼飯挟んで約5時間みっちり観てきた。はじまったばかりだったが、館内はなかなかの人混み。まだ入場待ちは発生していない様だったけれど、今後、混雑が予想されるので、じっくりと観たい方は早めの見学をお薦め。
圧倒的な資料に記憶の中のいろんな映像が刺激され脳内再生される。前半見たところで昼飯休憩しヒートアップした頭を休めた。
前半、まず『ハイジ』まで観て、ほとんど僕は観たことのなかった直筆の宮﨑駿レイアウト、原画を舐めるように見て、その鉛筆の線に痺れ、頭の中がいい気持ちに(^^)。
◆総論
僕はアニメーター、特に宮﨑駿とか大塚康生、小田部羊一氏の作画に興味があるため、とにかく彼らの肉筆の絵、その鉛筆の線に目がいってしょうがなかった。まさにその点でもこの展示会は、しっかりとアニメーターの作画をじっくりと観ることが出来て、とても堪能できる。観終わった後も、高畑勲の演出というよりも実はその印象が非常に強い。
演出家を美術展で取り上げることの難しさ。それがこの観終わった後の印象にも影響しているのかもしれない。
演出家は、コンセプトを言語化して伝えるのが仕事である。企画書も絵コンテもメモであったり、絵コンテの作画担当への口頭での依頼だったり、いずれも言語が介在する職種である(一部、高畑氏も絵を自身で描かれている展示もあったけれど)。
それに対して、この美術展は企画メモ、構想ノート等が大量に展示され、加えて高畑氏のインタビュー映像による演出意図のビデオが飾られている。いずれも言葉での表現である。一方、大量のメモを読むのに、美術館の展覧形式は適していない。高畑氏のメモは、かなり読んだつもりであるが、読めたのはおそらく展示で示されている(メモのページがたくさんあって奥にあって見えない資料も数々あり)1/10位だったと思う。
実は美術というのは、言語化できない領域の芸術表現である、と思っている僕は、美術館へ美術展として観に行っているので、どうしても絵に重点を置いた見方になってしまったのではないかと思う。それが観終わったあと、「東映動画初期作画展」「『カルピスこども名作劇場』作画展」といった印象を強く持ってしまった要因なのではないかと思う。
言語で表現される演出家の「芸術」領域は、ご本人執筆の本や構想・企画メモ、絵コンテの文字部分を読むことで受け止めることができる。それは美術展というより個人的な読書での鑑賞の方がふさわしい形式のように思う。
それに対して、演出家の言語化できない無意識の「芸術」領域とは一体なんなのだろう。もしかしたら、美術展で演出家を取り上げる際のポイントはそんなところかもしれない、とぼんやり考えていた。
もちろん今回の展示が、その構成で描いているように、高畑勲氏が漫画映画界に残したコンセプトは、多大なものであり、その功績は膨大な展示物とその構成によって見事に表現されていたと思う。それはコンセプトとして、先に述べた言語で表現できるレベルの高畑氏の考えである。ここで触れたいと思ったのは、そこから先、演出家の無意識の表現をダイレクトに体感できるような美術展というのはどういうものなのだろうか、と夢想し考えているということです。
絵コンテが描ける演出家はその絵の鑑賞がそのひとつとして挙げられる。加えてFOとかカット割りの演出を絵コンテで体感というのもあるかも?
が、そう考えると、後者の場合はやはり出来上がった映像が展示されていれば良いことになる。それは美術展というより映画館もしくは劇場で開催すべき回顧上映といったイベントが適している。
今回も館内でいくつかの映像シーンは展示されていたが、それはごく限られたシーンであり、全体の印象として演出家のイメージを十分に体感できるボリュームにはなっていない。(これは美術展なのである意味、当たり前なのだけれど、、、)
同時期に博多で開催されている、富野由悠季展がどういうアプローチをされているか、興味深い。が、しかし静岡に来るまでは僕はいけないでしょう。(今回も冨野氏の『アルプスの少女 ハイジ』の絵コンテが飾られていたけれど、あの絵から映画監督の無意識のイメージが伝わったかというと、ちょっと違いますね。)
高畑勲展では、そのためのアプローチの一つとして、『アルプスの少女 ハイジ』の第1話のハイジがおんじのアルムの小屋に向かっていくところで厚着の服を脱いでいくシーンの演出意図とその原画/映像展示とか、『かぐや姫の物語』のかぐや疾走シーンの演出意図と原画から映像までの多角的な展示が印象的だった。こうしたところに美術展での演出家の展示企画のポイントがあるのかもしれない。言語化されない無意識の表象としての美術、この定義自体がどちらかというと僕の個人的なものなので、より一般的な意見を聞いてみたいものです。
皆さんはどう思われますか。コメントいただけると幸いです。
と書きつつ、このブログでも取り上げているけれど、僕は今まで、映画監督のアート展を実はそこそこ鑑賞してレポートしている。ヤン・シュヴァンクマイエル、デイヴィッド・リンチ、ブラザーズ・クエイ、ユーリ・ノルシュテイン等々。
彼らは、いずれもその造形だったり、絵画だったり、かなり映像作りにアート的表現が侵食している作家たちである。映画と独立してアートとしての表現も確立されているため、今回の高畑勲展とは一概に比較できないかな、と思った次第。
◆以下、各展示メモ
いずれも会場で展示物を見て、忘れないように、iPhoneにメモを入力したものです。
まだ図録がほとんど読めていないため、図録に書かれていたり、もしかしたら当たり前の話もあるかもしれないので、あくまでもこのブログなりの備忘録くらいとして、読み飛ばしてやってください。
◆ナウシカの映画音楽についてのメモ
「王蟲の聖なる役割につける音楽、苦悩を背負っている (しずかな) 根源的生命力
ミュンベルクウェーベルン→バッハ
ペンデレツキ」
と書かれていた。ペンデレツキの陰鬱な曲が王蟲の姿にかぶっていたら、相当な迫力だったかも。
◆ドラえもん企画メモ
「シリーズの構成は不要であり、いかにバラエティを考えるかだけが重要」。
物語というよりショートショート的に一話ごと見せていくことの重要性を言われているのでしょうね。
◆ルパン23話 絵コンテ 一冊。ただし展示は表紙しか見えません。
この中身が見たかった!! ハイジとかと同じく高畑氏が文字、宮崎氏が絵を話し合いながら書いていったのであろうか。
今回の企画協力者に宮崎氏が挙がっていなかったが、その辺りの具体的な進め方が今後明らかになるといいですね。(NHK「なつぞら」で小田部羊一氏監修でそこらがドラマで再現されると一番良いのですが、、、)
◆やぶにらみの暴君
後年、監督により再編集された『王と鳥』と高畑氏はどっちを好きだったか、知りたくなる。著作に当たれば両作への感想は書いてあるのだろうか。(『王と鳥―スタジオジブリの原点』『漫画映画(アニメーション)の志―『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』』の2冊、読んでみないと)
◆かぐや姫 メモ
高畑氏が1959年東映動画入社まもなく、内田吐夢監督による『竹取物語』漫画映画化の企画があり、応募はしなかったということだが高畑氏が企画を練った際の資料メモ「ぼくらのかぐや姫」「『竹取物語』をいかに構成するか」の展示。
「美のアルチザンとしての翁の目つきに対して、かぐや姫が翁を殺してしまう」という過激なストーリー、「特に好きでもなく作りたくなかった」という当初の『竹取物語』への考え方、「音楽劇 影絵」動画として作る考えとかが読め興味深かった。
◆狼少年ケン
24話 象牙の湖 の彦根氏との一話が高畑氏のお気に入りだったとのこと。
僕は展示されていた、(たぶん)月岡貞夫氏のコンテの、キリンとダチョウの絵がべらぼうにうまいと感じました。目福(^^)。
◆太陽の王子ホルスの大冒険
ここのコーナーは、制作当時の資料が相当の量で展示されていて、充実しています。
香盤表とか、キャラクタの担当表が、制作過程をうかがわせて興味深かった。
キャラクタについては、「作者、(作画)責任者」がそれぞれ分けて書かれ、ひとりが両方担当する場合(「氷象」は「作者、責任者」とも宮﨑駿)と、「岩男」のように分かれている場合(「作者」 : 宮﨑駿、「責任者」: 大塚康生)があったとのこと。またカットごとの原画の担当表も展示されていた。こういうのがとても興味深いが、残念ながらこの資料は図録に掲載されてなかった。
岩男と氷象の戦いの 宮﨑駿氏の原画 5枚が展示されていた、凄い筆致で思わず見とれてしまった。
あと大塚氏の 高畑勲と一緒に描かれた絵コンテ。その生原稿(一部、青焼き)が観られたのも収穫でした。肉筆の迫力は何ものにもかないません。
あと宮﨑駿氏の提案書 25枚ほど。
「シータ(ヒルダ)は ホルス(パズーという名はどうでしょう)」という名前を変えてしまう提案とか大胆。
「全体にリアルなものにしたい」「しかしシンドバット的リアルはエセリアルなり」「東映調反対」なーんてところが変革者としての気概を感じさせます。
森康二氏による作画修正も、ヒルダの冷たさが 口元や目の線一本のわずかの位置の違いで表現されていて、素晴らしい。
小田部氏によるホルスの船出シーン。ここも抜群にうまいです。波含めて凄い迫力。人の手によって映像が生み出される凄みを感じさせて、漫画映画の持つ力の一端が表現されています。
◆長くつ下のピッピ
えんとつ掃除シーンについて、「ピッピ ここで超能力を見せる」というメモ。ピッピが超能力を持っているのは知りませんでした。
◆パンダコパンダ
宮﨑駿氏の絵コンテ 6枚、雨ふりサーカス レイアウト22枚。
脚本準備ノートとか含めて、柔らかい線が素晴らしい。メモの「ものすごーく大きな」という表現だとか目が点で表現されているがその表情の豊かさ、このころからハイジくらいまでの宮崎氏の絵の稚気が溢れてるところがとても和みます。波の表現も絶妙で感動。
◆アルプスの少女 ハイジ
第1話のコンテ。ここでも宮﨑駿の絵が凄い。まさに画面の原型であり、この鉛筆のタッチは、出来上がった映像を超えているのでないかというくらい、味わい深い。
富野由悠季氏のコンテも#18が展示。
びっくりしたのはハイジのOP。TBSラジオ アトロク(以下関連リンク参照)で小田部氏が「OPの踊りの参考にするため、宮﨑氏と小田部氏ふたりで踊ったところを8mmフィルムで撮った」と語っていたところ。なんとそのシーンの原画は森康二氏でした。それを小田部氏が修正。自分たちの姿を大先輩に描かせるという二人の若手アニメーター、凄い(^^)!
その森康二氏原画と作画監督 小田部氏の修正が並べて展示されている。前者の柔らかな描線が良いが、キャラデザが違うため、そこは小田部氏が直しているというのがよくわかる。
OP映像もプロジェクタで上映され比較できるようになっていたが、ここは是非8mmフィルムも合わせて上映して欲しかったのです。凄まじい展示になったのにと残念ですw。
◆母をたずねて三千里
ここでも宮﨑氏のレイアウトが多数、見られた。
船のロープが水面に落ちているシーンに「今日の標語 レイアウトそのままやると失敗す。信ずるな、例え天下のレイアウトでも(字あまり)」と書いてあって、笑ってしまった。
ペッピーノ一座と寂しそうなマルコの対比。
アメデオの原画 9枚、宮﨑氏によるとものでこれが凄い。目とアメディオのポーズ。動物の持つ知性とかわいさの表象が素晴らしい。
「原画参考」と描かれた人形を操るフィオリーナのおそらく宮﨑駿氏による絵も、映像のフィオリーナが持っていた寂しさが生の絵としてそこにあり、どれだけ見ていても飽きることがない味わい。
◆赤毛のアン
レイアウトは1話〜15話が宮﨑駿氏のはずなのに、展示の絵にはクレジットがない。展示されていたものの中では、46話のみ別の方のはず。何故、ここだけクレジットがないのでしょうね。こちらのレイアウトの絵も味わい深いけれど、前述した稚気というようなものは物語の違いもあり、あまり感じられません。
◆じゃりんこチエ
レイアウトと背景画が充実。ここでレイアウト図と背景が並んで展示されていたので、じっくりと見てみた。
以前から思っていたレイアウトでのデッサンと質感の良さが、背景画では何故かドロップしてるような気がするのは、僕だけでしょうか。
例えば冷蔵庫と家の質感。全体のバランスよりひとつづつの事物を写実として描こうとしているからなのか、レイアウトでのいい味が十分表現されていないと感じた。
三千里やハイジも、そういう見せ方で宮﨑駿レイアウトがどう背景画で変わったか見たかった。
◆かぐや姫のものがたり
高畑氏の制作意図から、橋本晋治氏の作画が多面的に表現されている。
◆ミュージアムショップ
今回の展示原画を使った絵はがきやグッズ類がたくさん売っていたのですが、アニメーターの名前は残念ながら書かれてません。
作画監督とか画面設計とか中心スタッフ名で代表してクレジットされているのですが、権利的にはどうなっているかわからないけれど、美術館での販売として、絵をこうして売るのであれば、その原画を描いた人の名前をクレジットしてしかるべきではないだろうかと思った。
展示としては、アニメーターの名前がかなりのボリュウムで今回表記されていただけに、そうしたところは少し残念でした。
以上、長文で好き勝手にいろいろとすみませんでした。堪能させていただきました。
◆関連リンク
・伝説のアニメクリエイター・小田部羊一に聞く「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」秘話に震えろ
・神アニメーター、小田部羊一さんへの超貴重なインタビュー【ハイジからポケモンまで】
TBSラジオ、アフタ−6ジャンクション公式サイト、音声ファイルあり。小田部さんと「高畑勲展」企画アドバイザーで図録の執筆もされている、高畑勲・宮崎駿作品研究所代表 叶精二さんが登場されています。
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