信州諏訪 御柱祭 平成二十八丙申年「諏訪大社式年造営御柱大祭」
御柱祭 - Wikipedia
"御柱(おんばしら、みはしら)または御柱祭(-さい、-まつり)は、長野県諏訪地方で行われる祭である[1]。諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭である[1]。"
諸星大二郎: 『暗黒神話』と古代史の旅 (別冊太陽 太陽の地図帖 27) 平凡社公式
"この御柱の由来には、神霊降臨の依代、聖地の標示、社殿建て替えの代用などさまざまな説がある。『古事記』では国譲りの際、タケミカヅチに追われることとなったタケミナカタが諏訪湖畔で降伏、この地から出ないことを約束し、その結界として、神社の四隅を仕切ったと伝える。"
5月中旬に「諸星大二郎: 『暗黒神話』と古代史の旅」をガイドに、一度、見てみたかった御柱祭を長野県諏訪市で見てきた。今回は、御柱祭と諏訪市の隣、茅野市にある縄文の遺跡等を見学した『暗黒神話』を辿る簡単なレポートである。
詳細はWikipedia等を見て欲しいが、この御柱祭は平安時代から続く諏訪地方の壮大な祭である。諏訪大社の4つの社に、それぞれ4本づつの巨大な樅の大木を建てるのだけれど、それらは山から切り出した後、諏訪と茅野の市内を物凄い数の氏子の人々によって人力で運ばれ、そして最後にお宮の四隅にこれも人力で立てられて、各社に結界を張るものである。
物凄い数というのは、各柱が15m程度ありこれを運ぶのにおおよそ50人ほどの人が3日間×3週の時間をかける。そしてそれが16本、つまり(仮に)50人×3日間×3週×16本=7200人日の工数がかかるわけである。諏訪地方の氏子の方々がおそらく総出でやっているのではないかという祭は、会場に行ってみると、多くの人がほとんど法被を着た氏子とその家族。僕らのような観光客はおそらくかなりマイナーな人数でないかと思えるほどである。(7200人日という人出は下衆な話だが、人件費換算したらおそらく4億円ほどはかかっているのではないだろうか)
そしてさらに凄いのは、地元のケーブルテレビでこの9日間、24時間中継が実施されていること。朝からに晩は各社と柱を引いている街からの生中継で、夜中はその録画番組。諏訪地方の大勢の方がそこに登場しているはずで、丁寧に捉えた映像は、おそらくその家族の人々のために24時間放送されていると思われる。
人が多くて祭り本番の会場は、ほとんど肉眼で柱を見ることができないのだけど、この中継によって、僕も祭のコアの熱気に触れることができた。
上の写真は、そのCATVの画面写真である。
LCV御柱特設サイト こちらがCATV局 LCVの特設サイトである。
◆茅野の縄文
まずは諸星大二郎『暗黒神話』の冒頭の舞台となった茅野市尖石縄文考古館。主人公 山門武が謎の老人 竹内と会う場所である。
ここには蛇体把手付土器他、多数の縄文時代の土器、土偶が展示されている。
興味深かったのはもちろんその土器土偶の造形。特に館内のビデオで述べられていた土器の文様が文字のなかった縄文時代の何らかの形態による意志伝達の手段ではないか、という説。
人々の心に浮かんだ物語等を精緻な文様で表したのではないか、という説が、日本各地の縄文遺跡から似たような文様が見つかっていることから紹介されるのだけれど、形象による記録というのが文字よりも絵に近いもので原初的に行われていたというのはとても器用み深い。
その当時、言語は会話として用いられていたと思われるが、それをそのまま一文字づつに割り付けるのではなく、文様として表現し記録するというのは、どこか画像による現代のコミュニケーションを彷彿とさせて、究極映像研としては興味が尽きない。
そして茅野市尖石縄文考古館に隣接して、縦穴式住居が多数復元されている。
五月の青空と緑、そして古代を忍ばせる茅葺の色。この空間は、気持ちをリラックスさせてくれる極上の場を形成している。ここで昼寝してみたい(^^)。
そしてこれも隣接する縄文土器が発掘された尖石遺跡。
上の写真はその尖石で、「諸星大二郎: 『暗黒神話』と古代史の旅」の記述によると、この1mほどの石の小ささにがっかりしたが説明文の「地中に埋まっている部分の大きさは不明」という記述から、足元に何十mもの巨石が埋まっていることを想像し、展示品の蛇体把手付土器とそれが結びついて『暗黒神話』の構想につながった、とある。
ここに立った諸星大二郎氏の想像に頭を巡らせ、ここでも4本の柱で結界を張られた石から、いろいろな想像を膨らませた。
こちらは諏訪大社下社春宮の近くにある、万治の石仏。wikiはこちら。
岡本太郎が賞賛したことで有名になったらしいが、なんとも素晴らしい石仏の顔である。近くには太郎氏筆による「万治の大仏」銘が刻まれた石板も存在する。岡本太郎がこの地で何を思ったのかも知りたいところである。
さて次は、尖石の高地から茅野市内に降りて、神長守矢家祈祷殿。
建物はこの地に生まれ育った路上観察学会の藤森照信氏の建築家としてのスタートに設計された建物。で、中は動物供養の祭事「御頭祭」の復元展示等がある神事空間。建物の雰囲気はのちの藤森建築を象徴する落ち着いた土着的なもの。
この裏手に、ミシャグジ社と呼ばれる原始諏訪信仰の聖地である祠がある。
そしてさらに裏手には藤森照信氏の実家の土地に建てられた藤森建築の白眉「空飛ぶ泥舟」と「奇想の茶室 高過庵」が存在する。
藤森照信氏「空飛ぶ泥舟」。こちらはあいちトリエンナーレ で移設されて展示されていたのを一度観たことがあるのだけれど、縄文の地 茅野市のこうした空間で見ると、脈々と歴史的文脈につながっているような気がして、たいへんに趣がある。
そして藤森照信氏「奇想の茶室 高過庵」。
もちろん僕も水木しげるの「鬼太郎の家」を想像としてしまうのだけれど、その脚の造形がまた素晴らしい。木の表面の皮を見事に継いで付け足されたウロコ状の模様がまるで「ハウルの動く城」のテクスチャに見える。縄文で宮崎駿にもその地下水脈ではつながっているのではないだろうか。
ということで駆け足で諏訪湖近郊の縄文奇想物体の紹介でした。うちから2時間ほどのところなので、またさらにゆっくりとこの空間に浸りに来たいものです。
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